姉と2人で映画のBGMを覚えて帰った
澤本:まわりの音楽をやってらっしゃる方もそうだったんですか?
細野:基地があって、放送局があるところの子どもたちが音楽をやりだすというのはあったね。
澤本:じゃあ基地の場所と音楽をする子どもたちは相関関係があったと。
細野:僕はあると思う。調べたことはないけど、はっぴいえんどの今は亡き大瀧詠一くんは岩手だけど、三沢基地の放送が入ってきたと言ってたし。あと、「めんたいロック」と言われてるような久留米や福岡の・・・たとえばシーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠くんは久留米のほうの放送があって、そういうのを聴いてたと。
澤本:すごい! 本当に相関関係があるんですね。
細野:そういうのを聴いてないと、当時は家で聴くものは歌謡曲しかないから。その差はずいぶんあると思います。聴いてた人が少数派ですけどね。
権八:そういうときは録音するんですか?
細野:そんなものないもん(笑)。録音機器なんてないよ。
権八:じゃあ浴びるように聴いて。
細野:聴くしかない。たとえば、映画を見て良い音楽があるとすると、それを覚えて姉と一緒に帰って、あの曲はどんなのだっけと2人で思い出してね。レコードも出てないし。
権八:今の感覚からすると、不便のようにも感じるんですけど、そのときの音楽への向かい方がちょっとうらやましくもありますよね。
中村:絶対に感覚が鋭敏になりますよね。
細野:それはあるかも。うらやましいでしょ(笑)?
中村:うらやましいです(笑)。
澤本:細野さんに前、話を聞いたときに「飽きっぽい」とおっしゃってたじゃないですか。だから、最初に日本語のロックをやったけど、はっぴいえんど自体もそんなに長くやられてないんですよね。
細野:2年ぐらいだったかな。
澤本:長いバンドと思ってるけど、意外に。
細野:今の時代で2年というと、ついこの間だよね。でも、かなり変動が激しくて、いろいろなことが起こったから、当時の2年は濃密だったんですよ。自分が変わるよりも前に音楽状況が変わって。アメリカはフォークブームから突然ヒッピーが出てきてね。それからサイケデリック。ロックは踊るものじゃなくなって、座って聴くものだというロックバンドが出てきて、そういうものを聴いてました。
澤本:そこに影響されて。そういう流れでいっぱい聴かれたと思うんですけど、日本語ロックからどうして急にYMOみたいなものになったんですか?
細野:急というか、確かに僕の音楽を聴いてた人はビックリしたみたいだけど、僕の中では必然。当時、何が一番ビックリしたかというと、音楽専用のコンピュータがあったんですよ。誰が使うんだと思ったけど、商品化されてるんだよ。楽器メーカーがつくったんでしょうけど、僕はビックリしちゃってね。
同時に街にゲームが出はじめた。最初はシンプルなテニスからだんだん複雑になってきて。そのうちインベーダーになるんですよ。これは僕たちのテクノより早いわけ。それに刺激されましたね。
澤本:じゃあ、まずコンピュータというものが出現したということに大きく影響されて、だったらこれを使ってやらなきゃと?