売れなかったけど誇れる特集
雑誌編集の醍醐味は、失敗を繰り返しながら、次の特集をつくっていくことだと思います。なので、これまでのベスト企画というのはなく、いつもベストだと思うものをつくっています。それでもあえて質問にお答えするなら、『SWITCH』創刊から30年以上の歴史のなかで、“一番売れた特集” と“一番売れなかった特集”を紹介するのが、わかりやすいのではないかと思います。
まず一番売れなかった特集は、1987年に発売した、アメリカのスポーツライターであるジョージ・プリンプトンを特集した号です。当時、日本ではプリンプトンのことを誰も知らなかった。ではなぜプリンプトンを取り上げたのかと言うと、数多くノンフィクションの名作を書いてきた作家・沢木 耕太郎さんがもっとも影響を受けたライターだと、沢木さんの口から聞いたからです。
客観性よりも取材対象の懐に飛び込み濃密に描くことを重視するニュー・ジャーナリズム隆盛の当時、プリンプトンもまた「体験的ジャーナリズム」という手法でスポーツの世界をダイナミックに表現していました。たとえば野球であれば、どれほど速い球なのか自分でピッチングを受ける。ボクシングなら、実際にスパーリングをしてハードヒッターのパンチを受け身体で痛みを感じる。なかでも彼の作品でもっとも有名なのが、プロのアメリカンフットボールの試合に実際にクォーターバックとして参加して書いた『ペーパー・ライオン』という作品です。
プロ選手に交じって練習をする。最初はついていけなくて馬鹿にされるのですが、彼自身の天性の運動神経で必死にこなしてレポートしていく。体験的ジャーナリズムの実践です。それまではフィールドの外からの視点で語られていたスポーツを、フィールド内の視点で語ることで、プレイヤー一人ひとりの動きが生々しく伝えられるようになったんです。
彼の翻訳本は一冊もなく、「この人を紹介したい」という強い思いで特集をつくることにしました。プリンプトンへの密着取材は長期に及んだため、伝えたいことがたくさんあり、その結果、細かな活字でびっしりと文章だけで埋め尽くされたページが 延々と続くことになってしまいました。
この特集は『SWITCH』の創刊から2年後につくった号ですが、「これをつくるために自分は雑誌を創刊したんだ」と思うくらいに力が入っていました。自分でつくる雑誌ならば、誰にも文句を言わせず、自分で責任を取ればいい。しかし結果は決して成功とは言えない、というか売上はさっぱりでした。ただ、僕らにとっては誇りを持った失敗であり、記憶に残る一冊です。いまになって読み返してみると「こんなのよくやったな」と思って照れくさいですけどね(笑)。
雑誌の特集が一人の人物でつくられるときほど、企画そのものには繊細さが求められるような気がします。僕らが大切にする編集は一言で言うと「やらかした感」です。読者の方々がワクワクする企画はどんなものかというのは、常に考えています。編集者のドキドキと対のようなものですね。ネットではこのワクワク感が得られないと思っています。
紙でしか読めないことの不自由さ、むしろそこに価値を見出して、購入する読者の方に対して響く雑誌をつくらなければならないと思っています。紙でしかできない世界、「奥へ、奥へ」という世界観、そのうごめきを表現するのが、編集者の醍醐味だと信じています。紙ならではの特性、その可能性を探すのです。雑誌が厳しいと言われる現代、大いに悪あがきがしたいし、あばれたい。「紙でしかできないこと、伝えられないこと」に、これからもこだわっていきます。それしかできません。
……「『SWITCH』史上、最も売れた特集」「なぜ、その特集が売れたのか」「特集作成時の印象的なエピソード」など本記事の続きの他、『編集会議』本誌では『anan』『週刊東洋経済』『dancyu』編集長にも「私のベスト企画」を聞いています。ぜひご覧ください。 ※本記事は一部を編集したものです。