【前回のコラム】「私を変えた凄い人たち — 2人目 樹木希林さん」はこちら
松尾 卓哉 17(ジュウナナ) 代表
クリエイティブディレクター/CMプランナー/コピーライター
「目立つ、そして、モノが売れる」広告で、スポンサーの売上に貢献し、国内外の数々の広告賞を受賞。電通、オグルヴィ&メイザー・ジャパンECD、オグルヴィ&メイザー・アジアパシフィックのクリエイティブパートナー就任の後、2010年に17(ジュウナナ)を設立。主な仕事は、日本生命、野村證券、キリン、明治、ピザーラ、KOSE、TOYOTA、東急リバブル、東洋水産、ENEOSでんき、メルカリなど。2016年4月に、『仕事偏差値を68に上げよう』を上梓。企業、大学、自治体での講演も多数。
3人目は、岡康道さん。
90年代半ばから、日本の広告界を代表する目立つ仕事を連発し、
タグボートを設立してから今も先頭を走り続けています。
間違いなく広告史に残る偉大なクリエイターです。
二十数年前の電通で、私と同期の新入社員4名が4CD局に配属されました。
そして、その新人5名を統括して、能力を引き上げるメンター役が岡さんでした。
当時の岡さんは、クリエイター・オブ・ザ・イヤーを獲る前年で、作る広告がすべてヒットし、ノリにノっていました。全身からは何者にも有無を言わせぬ無敵オーラが出ていました。
岡さんとの初めての挨拶の時に、私がラグビーをやっていたことがバレました。その週の土曜には岡さんが主将をしていた社会人タッチフットボールチーム『リベンジャーズ』の練習に連れて行かれ、有無を言わさず入部させられました。
いろんな会社の人で構成されたチームでしたが、皆、余暇の運動とは思えないほどの真剣さで取り組んでいました。土曜、水曜の練習の他に、大会前には合宿もしていました。どこにそんなにモチベーションがあるのか不思議でした。
水曜は19時30分から、日比谷公園での練習が始まります。
皆さんは、夜の日比谷公園に行ったことありますか?
数メートル置きにあるベンチには、高校生から大人まで、けっこうな数のカップルが座っています。そして、キスしていたりするのです。
その中を、我々はパンツ一丁になって着替えるんですね。
そして、迷惑そうな目でこちらを見ているカップルの前を黙々と走るんです。
私は、それがとても嫌でした。
ある日、
「松尾、オレたちは学生の頃もこうやって走らせられてたな。
大人になっても何も変わってないじゃないか…」と
岡さんが大袈裟に嘆いた時に、恥ずかしさと情けなさが入り混じっていた気持ちが、一転して、「今、笑えることをしているんだ」と思えました。
「企画する視点で物事を捉える」ってこういうことなんだと目から鱗が落ちました。
ある日、なかなかアメフトの動きに馴染めない私に、会社で岡さんから紙の束を渡されました。それは、手書きで記してあるプレーブック(各プレーにおける、各選手の動きが○と→で記してあるもの)でした。ほとんど会社にいない岡さんが、時間を割いてくれて、各プレーでの私の動きを細かく説明してくれました。
「どうして岡さんも皆さんも、ここまで一生懸命になれるんですか?」
「考えてみろよ。人生で、日本一になれる機会って、めったにないぞ。
どんなジャンルだって、日本一って、すごいことだろ」
シンプルで、すごく強い動機の提示でした。周りの人に合わせて一生懸命にはやっていましたが、どこか受動的でした。その日から、意識が変わり、練習日以外にも自己鍛錬するようになりました。
ところで、1年間、岡さんは私たち新人5人に仕事のことは、ほとんど何も教えませんでした。「教えても身につくような仕事じゃない」と、会社に与えられた役を岡さんは最初から放棄していました。
それでも、私は練習の前後などで岡さんと一緒に移動する時間があったので、時々、仕事に関する質問をしていました。
「どうしたら、優秀なCMプランナーになれますか?」
「24時間、365日、自分の企画がどうやったら面白くなるかを考え続けろ。
そうしたら、8年後には、一人前になってるよ」
「8年も掛かるんですか?」
「早ければ、7年だな」
「岡さんも、そうやって、今があるんですか?」
「当たり前だろ」
岡さんが営業からクリエイティブ局に転籍してきた時、隣の席が佐藤雅彦さん(『ピタゴラスイッチ』、『だんご3兄弟』など、気持ちよくなる音を中心に、数々の新しい表現技法を作り出した人)だったそうです。
間近で天才のすごさを見せつけられ、自分の企画がまったく通らない日々。
悶々としていた岡さんは、週に1冊の本を読み、1本の映画を観て、
年間50冊と50本を超えることを自分に課して続けたそうです。
そして、読んだ本と観た映画を手帳に記して、たまに手帳を開いては、
「俺はこれだけやっているのだから、負けるはずがない」と
自分を奮い立たせていたそうです。
私がそれを聞いた時の岡さんは売れっ子であり多忙で、タッチフットの練習も欠かさず参加していながら、まだ50冊50本を続けていました。
私も真似してやってみました。しかし、続いたのは2年で、
小さな仕事を任されて忙しくなってくると、すぐに達成できなくなりました…。この数字の継続がどれだけ凄いことかを身をもって知りました。
そして、今でもハッキリ覚えている会話があります。
聖路加タワーの上階につながる階段ホールを岡さんと歩いている時、
「どんなCMプランナーを目指したらいいですか?」
という私の曖昧な質問に対して、
「オレの真似はするなよ。最近、オレの企画を真似た人間が出始めている。
でも、そいつらは、ぜったいにオレには勝てない。
雅彦さんの真似をした人間も、結局、誰も勝てなかった」
「じゃあ、誰を目指せばいいのでしょうか?」
「小田桐さんだな」
「…オダギリ…さん?」
「おまえ、小田桐さんを知らないのか?」
「…はい」
岡さんが、その場で教えてくれた小田桐さんの代表的な仕事は、全部知っているものでした。
「オレには、オレの型がある。雅彦さんにも、雅彦さんの型がある。
でも、小田桐さんには、それがない。小田桐さんの仕事は、
スポンサーや商品に合わせて、毎回、型が変わってるんだよな。
そんな人、他にいないぞ。ずっとモデルチェンジしてるんだよ」
「モデルチェンジ…」
「そう。小田桐さんがやって成功したことを誰かが真似しても、
もう小田桐さんはそこにはいなんだよ。
そうだよ、おまえは小田桐さんを目指せよ」
その名前に初めて出会って、衝撃を受けた日でした。そして、この10年後、小田桐さんの下で仕事をして、仕事面だけでなく、人生の師とも仰ぐことになろうとは、この時は思いもよりませんでした。
有難いことに、これまでもクリエイティブ人生の岐路に立った時、岡さんに相談すると、視点がガラッと変わるようなアドバイスを頂いてきました。きっと、岡さんは私にとって、これからも主将なのだと思います。
岡さんとタッチフットボールをできたおかげで、今の私があります。
岡さん、ありがとうございます。
【日本選手権。リベンジャーズは5度の日本一に。10番が岡さん。35番の私が笑ってないのは、靭帯が切れた痛みに耐えているからです】
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