実は、この物語には二つの対立項、二つの水に流す対象(となりうるもの)があります。一つは男性の中の葛藤。自分が息子に対してしてあげるべきことは、 1.働く背中を見せる、プロの矜持を背中で見せることなのか 2.なるべく多くの時間を家族と過ごし息子を慈しむことなのか、という対立です。もう一つの対立は、a. そのように 1.と 2.の狭間で揺れ動く男性と、b.それは疑問の余地なく 2.だろうと考える(つまり葛藤を理解しない)妻との対立です。
作者の意図としては、「与えるもの」というタイトルが示すとおり、また元々は父の日用の動画だったこともあり、この映像は男性の中の葛藤のほうを描いています。それゆえ、洗い流す、という時、それはそんな男性の葛藤を「洗い流す」ことを示唆しており、葛藤が洗い流されたことで上記a.とb.の対立がなくなった結果、家族がまた一つになった、ということを伝えたかったのでしょう。
しかし、それは男性に感情移入した場合、あるいはタイトルを念頭に入れて、その意図を探りながら見た場合の話で、視聴者の中には当然妻に感情移入してストーリーだけを見る人もたくさんいます。そういった見方からすると、「洗い流す」対象はa.とb.の夫婦間の対立、いわば夫婦ゲンカで、妻のほうはお風呂に入っているわけでも何でもないのに、男性側の視点で一方的に「洗い流そうと」は何事だ、ということになります。これが炎上するのは無理からぬことでしょう。
まず一つ言えるのは、単純明快なストーリーを超えたもの(伏線を含むもの)、かつ解釈の幅があるような物語を広告動画として提示するのは非常にリスキーである、ということです。伏線は決して理解されないのと、誤解の可動域がいたずらに増えてしまいます。いわゆるバズ動画には、最初に意外な事実やミステリアスな状況を突き付けて、のちにネタ晴らしをする(伏線にあたるものを後でみせる)、という展開が多いように思われますが、これはプロットなしでストーリーを配置する典型例に思われます。
また、広告主は、そのコンテンツがどのような視点と文脈で解釈されるのか、最終的に複数の角度から複数の人の目でチェックする必要がある、ということなのかもしれません。
通常、広告物の作成プロセスでは、特に日本では多くの関係者の意見を聞き、コンセンサスを取りながら制作を進めていきます。ただ、そこで意見を言う関係者は、物語の意図や文脈の説明を事前に受けています。実際に出来上がったコンテンツを、まったく文脈を把握していない関係者に見せ、感想を聞く、というプロセスは、上記のプロセスゆえに逆に欠落してしまっていることが多い。
出来上がった動画をそこから修正するのは大変ですし、お蔵入りにしてしまう危険もあるのでなかなか勇気がいることですが、それでも完成後の(文脈を把握していない)関係者レビューというのは、このような意図せぬ悪評価を未然に防ぐ意味で、今後広告コンテンツの制作に必要なプロセスになってくるのではないかと感じた事案でした。