例えばTwitterでアクティブに情報発信されている作家の平野啓一郎さんは、Twitterを始めた2009年から2017年の8年間の間には5編の小説を執筆されているのに対して、それに先立つ2001年から2008年の8年間では実に29編を執筆されています(ウィキペディアにおける作品一覧をカウントしました)。
平野さんのTwitter上のつぶやきは小説というより評論に近いので、表現のスタイルが小説から評論に、表現の場が書籍からインターネットに移行した、という話なのかもしれません。あるいは、芸術家の生涯につきものの多作な時期と寡作な時期の波が、たまたま上記に重なっただけなのかもしれません。また、Twitter以降に多い書き下ろしと、Twitter以前に多い文芸誌への寄稿を単純比較することはできません。
それでも、例えば平野さんの音楽や美術に関する評論のようなツイートを見ると、これが小説の一節として、主人公とヒロインの知的な会話の一片としてどこかにはまっていても不思議ではないな、と思うことがあります。ソーシャルメディアによる表現欲求の充足が、小説の生産性に多少なりとも影響したとは考えられないでしょうか。
もちろん、だからと言って、このソーシャルメディアによる表現欲求の充足を100%否定するものではありません。それはそれで新しい表現の形であり、そこから生み出される価値は時に伝統的な表現形式を凌駕するでしょう。ただ、アイデアには長い間の熟成を経て初めて大作として花開くものもあります。ブラームスの最初の交響曲は、構想に20年超を要したと言われていますが、初めの着想の段階で彼の表現に対する欲求が充足されてしまっていたら、我々人類は彼の交響曲1番を知らないわけです。
著名なブロガーやデジタルに強い広告クリエイターのほうが、ソーシャルメディアでは意外と消極的だったり、投稿してもその大半が日常の些細なことだったりするのは、実はそれを意識してのことなのかもしれません。本来の仕事でその想像力をフルに持続するために、あえてソーシャルメディアでは表現欲求を満たしてしまわない。ある人は無意識に、ある人は意識的にそれを実践しているのかもしれません。
広告やメディアの仕事は、どんな職種であれ高い創造性が要求されると考えます。創造や表現に対するモチベーションの持続に課題を感じていらっしゃる方も少なくないでしょう。そんなことが必要ないほど表現に対する欲求が旺盛な人もいらっしゃるでしょうが、そういう人以外は、ぜひ一度ソーシャルメディアでは意識的に「表現しない」という方法を試してみるのはいかがでしょうか。何を隠そう、その実験を経て完成したのが本稿だったりもするのです。