【前回記事】「「パナソニック宣伝100年の軌跡」(11)技術の先にある、未来を描く—BtoBソリューション・デバイスの広告篇 — 情報通信の広告篇」はこちら
2018年に創業100周年を迎える、パナソニック流の宣伝に迫る対談。最終回は「企業の広告篇」です。
“良い商品はいち早く人々に知らせる”という創業者・松下幸之助の考えに基づき、様々な形で宣伝活動を続けてきたパナソニック。
商品だけでなく、社会課題に対する考えや取り組みについても「企業広告」として発信してきました。
今回は、同社の元社員であり、漫画家の弘兼憲史さんと、企業広告の制作に携わったアートディレクター・中森陽三さんの対談です。
国際社会の一員としてパナソニックが訴えてきたこと
― 1930年、社長メッセージがつづられた新聞広告が掲載されました。
弘兼:松下幸之助さんの直筆の署名が入っていますね。経営の考え方を示すとともに商品を紹介し、信頼につなげようとする意図があったのでしょう。幸之助さんが唱えた「水道哲学」を思い出します。良い商品を水道から出る水のようにどんどん世の中に送り出し、お客様に使ってもらって、世の中をより良くするという考え方ですが、利益はあくまで社会に貢献した結果として得るもの、そうした思いが反映されているように感じますね。
中森:パナソニックにとって企業広告は、経営の「芯」となるものを表しているのでしょうね。80年以上も前の広告からも、今につながる「信念」がしっかりと伝わってきます。
― 1960年代に入ると「貿易の自由化」や「適正な競争」に対する意見広告も発表しています。
弘兼:広告を通して経営者としての考えを示しているのがよくわかります。「実は熟した」というコピーで貿易の自由化を訴える新聞広告は、技術や商品に対する自信が感じられますね。「儲ける」というコピーの広告は、適正な競争や共存共栄といった、現代でも十分に通用することを語っています。
中森:「儲ける」はストレートな表現ですが、読ませる力がある。自分たちだけが私腹を肥やすのではなく、分け合うことでみんなが幸せになる循環について語りかけていて、企業の思いの強さがにじみ出ています。
弘兼:幸之助さんの顔写真が大きく出ている広告もあったのですね。
中森:メガネ屋さんとのエピソードがつづられていますよ。トップの顔が見える広告は、企業が身近に感じられ、説得力があります。
弘兼:「日本の経済に奉仕してゆくことをお約束いたします」と書かれているとおり、会社が大きくなっていくにつれ、日本全体に目が向いていったということでしょう。私が当時の松下電器産業にいた頃、幸之助さんが社員の前で、これからの業界全体を展望した方針を話されていた記憶がよみがえってきました。私が入社したのは、大阪万博で松下館が人気を博した1970年。販売店向けのカレンダーやナショナル坊やの人形、ポスターなどを制作したり、ブランドロゴをつくったり、企業ブランドを高めて販売を助成する部署にいたんです。
中森:販売店の方が自信をもってお客さまに対応している姿を見ると、ブランドを高める広告は大事だと実感できますよね。モノをつくっている人の自信を高めるだけでなく、売る人も含めて納得する広告をパナソニックはつくってきたのだと思います。
― 80年代に入ると心の充足につながる技術を意味する「ヒューマン・エレクトロニクス」など、スローガンを打ち出す広告が目を引きます。
弘兼:創業者のメッセージを強烈に示す広告から、社会貢献への取り組みを伝える柔らかな広告へと表現が変化しています。今ではコーポレート・アイデンティティという言葉が使われますが、パナソニックは初期の頃から、会社の存在意義を広告で表してきた会社です。企業は社会に貢献し、すべてのステークホルダーのためにあるべきだという姿勢を明らかにしていますよね。
― 中森さんがアートディレクションを担当した「いつもSOMETHING NEW」をスローガンにした87年の広告は登場感がありました。
中森:新しいパナソニックブランドのインパクトのある浸透と、AV機器を若者向けに訴えていく広告で、映画監督のジョージ・ルーカスさんに、ライトセーバーを持って、『スター・ウォーズ』の象徴的なポーズで登場してもらいました。
弘兼:「僕の夢に、負けないでほしい。」のコピーもいい。
中森:見る人のイメージが膨らんで、新しい夢を描けるような広告を目指しました。