【前回の記事】「『広辞苑』改訂の「新語」から、言葉の時代性を考える」はこちら
基本的に、私たちは「ことば」を使ってコミュニケーションをとります。この行為があたり前に成立している背景には、そもそも「ことばを共有できている」という大前提があります。ところで、私たちはことばを「本当に」共有できているのでしょうか?
前回のコラムでご紹介したように、ことばというものは「時代」と密接な関係にあります。たとえば、[スマホ]や[マニフェスト]などのように、まったく「新しいモノ」が生まれたことで名付けられることばもあれば、[メタボ]や[セクハラ]、[フリーター]や[ニート]など、今までも存在していたけれど、その事象を「改めて名付けること」でこの世に存在させたというような新語もあります。
「近代言語学の父」と呼ばれたスイスの言語学者・ソシュールによれば、「言語こそが世界に切れ目を入れて、名前を名付けることで、初めてそのものを存在させる」と語っています。この「名付ける」という行為の威力は絶大で、一番身近なものは「自分の名前」であり、生まれた時に名付けられることによって、社会における存在を獲得しています。
先ほど取り上げたような新語の事例の場合も同様で、もはやそのことばで名付ける以前に、私たちが「そのこと」をどのように説明していたのかを思い出すことは難しいのではないでしょうか。逆に言えば、言いたくても言い表せなかったからこそ、必要に迫られてそれらが誕生し、私たちの「社会全体に共有されている」のだとも言えます。
さて、ここで改めて問題です。もしも、いまこの場所が「世界が100人の村だったら」としましょう。いろいろな国の、いろいろな文化の人たちがいるとして、そのすべての人の頭の中で[コップ]というものを思い浮かべてもらうとします。なにせ100人の村なので、きっと「いろいろなイメージ」があるに違いありません。[取っ手のあるコップ]を思い描く人もいれば、[長いグラスの形状]を想像した人もいたり、色彩もきっとさまざまに[透明なコップ]もあれば、[真っ赤なコップ][漆黒のコップ]もあるかもしれません。描かれたコップの種類は、かなりのバリエーションになるはずです。
ところが、どんなに多様であったとしても、コップが「液体を入れる器である」とのコンセプトは、おおよそ共通するのではないでしょうか。これを[机]や[椅子]で試してみても、きっと結果は変わらないはずです。なぜなら、これらは100人の住人たちが「一度は目にしたことがあるもの」だからです。
それでは、いよいよ本題です。次にもしもこれが[愛]や[自由][平和]がお題だったらどうなるでしょうか。ここでいったん読むのを止めて、頭の中にみなさん自身の「それ」を具体的に思い描いてみてください。