「ハラスメント」と「コミュニケーション」の境界線って何だろう?

【前回の記事】「ことばをGoogle“画像”検索でググってみたら」はこちら

最近メディアでは、連日のように「何かのハラスメント」について報道されています。そして、加害者側が「私はそれを“ハラスメント”だとは思っていませんでした」と語ることで、より炎上してしまっている状況が頻繁に見受けられます。これはまさに「ハラスメント」の捉え方の違いが浮き彫りになっているわけですが、辞書的な意味において「ハラスメント」は果たして何と定義されているのでしょうか。

「ハラスメント」の定義
・人を悩ますこと。地位や立場を利用した嫌がらせ。(広辞苑第七版)
・人を困らせること。いやがらせ。(三省堂国語辞典第七版)
・嫌がらせ。(スーパー大辞林3.0)

各々の辞書に共通している定義は「嫌がらせ」。「自分は“嫌がらせ”をしたつもりはない。すべて相手を思ってしたことだ」というのが、要約すれば「加害者側の主旨」になるのでしょう。

あたり前のことですが、ことばは「ことば」によって定義されています。膨大な情報量の辞書を引くたびに思うのは、調べていることばの説明文を読んでいて、もしもその意味が分からなければまたそれを調べて、と延々にリンクし続けていくという「ことばの不思議さ」です。

たとえば、広辞苑(第七版)で「結婚」を調べてみると「男女が夫婦となること」と書いてあります。では改めて「夫婦」とは何かと調べてみると、「夫と妻。適法の婚姻をした男女の身分」とあります。それでは今度は「婚姻」を調べてみると「結婚すること。夫婦となること」とあり、見事にループしてしまいました。

「結婚」男女が夫婦となること
「夫婦」夫と妻。適法の婚姻をした男女の身分
「婚姻」結婚すること。夫婦となること。

このように、互いが互いのことばでそれぞれ説明し合うことも十分ありえることで、とはいえ辞書編集者の方々は、なるべくこのような状況に陥らないよう改訂版ごとに語釈を見直しているそうです。ちなみに先ほどの「嫌がらせ」を調べてみたら、「相手の嫌がることを、わざわざ言ったりしたりすること」となっていました。

いずれにしても、専門家ではない私たち一般人にとって「ことばを明確に定義すること」はとても難しい行為なので、つい曖昧にことばを使ってしまいがちです。そこで、私自身がことばについてのワークショップを行う際は、自分が使うことばに自覚的になるためのいろいろな思考アプローチを考えます。前回のコラムでご紹介した「ことばの画像検索」もその内のひとつですが、次のようなフォーマットを使って考えてもらうこともあります。

「○○」と「○○」の境界線は何ですか?

 

それぞれの括弧には、「対になることば」か「似ていることば」を入れることが多く、たとえば「おとな」と「こども」などを入れてみて、自分自身がどこに境界線を引いているのか改めて考えてもらうというものです。ルールは簡単で、境界線の語尾を「〜かどうか」で終わらせること。皆さんだったら、どこに境界線を引くでしょうか。ここで、過去に学生や一般市民の方々から集めた事例をいくつかご紹介したいと思います。

「おとな」と「こども」の境界線
・ビールがおいしいと思えるかどうか
・税金を自分で納めているかどうか
・自己管理ができるかどうか
・人から「頼り」にされるかどうか
・「自分の幸せ」よりも「他人の幸せ」を望むかどうか
・「ひとり」で生きているわけではないと気付いているかどうか

上記の回答例から分かる通り、一般的な線引きに使われる「年齢」を境界線にする人はまずいません。「ビール」や「税金」「信頼」など対象はさまざまですが、いわゆる「自立感」を象徴しているものを境界線にする人が多かった印象があります。ちなみに一番下の回答例は、個人的にもっとも気に入ったものです。友達同士の中で「どうせ私はひとりぼっちだ!」と嘆く孤独感や、親や大人に対して「自分はひとりでも生きていける!」と声高に主張する姿勢そのものを「こども」と位置付け、人間社会の中で支えられている自分自身を見つける視野の広さを「おとな」と定義したというもの。実に考えさせられます。

この[「おとな」と「こども」の境界線]は、いわゆる「対義語」の事例ですが、社会はとかく「白」と「黒」、「正義」と「悪」のように二項対立で物事を分類してしまいがちです。本来、白と黒の間には「グレー」という色があるように、「ことばの境界線」を改めて問うということは、この世界をグラデーションで眺める機会にもなります。そして、時に「偉人のことば」と言われるようなものの中にも、既存の境界線を揺さぶるまさに「名言」が存在しています。たとえば、実際のとある偉人のことばを境界線フォーマットに変換してみると次のようになりました。元のことばが何か分かるでしょうか。

 

「成功」と「失敗」の境界線…やめることなく続けたかどうか
「愛情」と「憎悪」の境界線…相手に関心を持っているかどうか

「成功」と「失敗」の例は、今でも多くの社会人から支持を受けている実業家・松下幸之助氏の有名なことばが元になっています。「私は失敗したことがない。なぜなら成功するまで続けたから」と語ったものですが、これは成功と失敗を分離するのではなく、失敗はあくまで「成功に向けたプロセスの一部」と捉える新たな考え方を示しています。

一方、「愛情」と「憎悪」も表裏一体の概念としてよく使われる対義語です。この捉え方に一石を投じたのが「愛の反対は憎しみではなく、無関心」ということばで、発言者はカトリック教会の修道女マザー・テレサとも、そうでないとも言われていて定かなことは分かりません。いずれにしても、私たちに「愛」について考え直させてくれた新しい視点だったのではないでしょうか。つまり、愛と憎しみは表現の違いこそあれ「存在を認めている」という意味においては同じであり、もっとも酷い他者との関係性は「存在を認めないこと=無関心」だとしたのです。

さて、ここまでは「対になることば」の境界線を見てきましたが、次は「似ていることば」の事例をご紹介したいと思います。この「似ていることば」というのは、言語学上の「類義語」とも少し違い、「本来は全然異なることばのはずなのに、意外とその違いを分かっていないかも…」といった類のことばです。たとえば、ワークショップでは次のようなことばの組み合わせにチャレンジしたことがありました。

「忙しい」と「リア充」の境界線
・楽しいかどうか
・疲労が残るかどうか
・達成感があるかどうか
・自分が望んだことかどうか

この問いは大学生自らが考案した事例です。要するに、「リア充」を目指し過ぎて本末転倒になっている日常を考え直したいとの切実な思いから生まれた問いで、SNS等で「他者の共感」を過剰に意識してしまう現状への危機感からなのか、多くの答えが「主観」を軸に据えているのが印象的でした。一方、年配の方々だからこそ生まれた興味深い問いもあります。

「教育」と「洗脳」の境界線
・視野が広がるかどうか
・自分で判断する力を授けているかどうか
・選択肢が与えられているかどうか
・相手を幸せにしているかどうか
・愛があるかどうか

ここで注目すべきは、境界線の「視点」が今までの問いの回答例とは大きく異なっている点です。というのも、これまで紹介したものは「(自分が)楽しいかどうか」「(自分が)やめることなく続けたかどうか」など、多くが「自分自身」が主体となる視点でした。ところがこの境界線の場合、「相手側の視点」から答えています。つまり、教育をある種の「コミュニケーション」と捉えているということです。なぜならコミュニケーションとは、イニシアティブ(主導権)が自分側ではなく、常に「相手側」にあるもので、たとえばテレビのチャンネル権を持っているのは「視聴者」で、このコラムを読むも読まないのも「読者の方々」が決定権を握っています。

 

さて、ここで改めて冒頭の話題に戻りたいと思います。「ハラスメント」とは、他者が存在して初めて成立する行為なので、当然のことながらコミュニケーションの一形態だと言えるでしょう。では、「ハラスメント」と「コミュニケーション」の境界線はどこにあるのでしょうか。かつて、こんな答えに出会ったことを思い出しました。

「そこに笑顔があるかどうか」

まさに「(自分が)嫌がらせをしたのかどうか」ではなく、相手側がどう受けとめたのかを大切にしている視点です。このように、ことばとことばの境界線を眺めることで見えてくることがあります。ぜひみなさんも、「  」と「  」に気になることばを入れて境界線を眺めてみてください。もしかすると、新しい世界の捉え方が見えてくるかもしれません。

伊藤剛(いとう・たけし)

1975年生まれ。明治大学法学部を卒業後、外資系広告代理店を経て、2001年にデザイン・コンサルティング会社「asobot(アソボット)」を設立。主な仕事として、2004年にジャーナル・タブロイド誌「GENERATION TIMES」を創刊。2006年にはNPO法人「シブヤ大学」を設立し、グッドデザイン賞2007(新領域デザイン部門)を受賞する。また、東京外国語大学・大学院総合国際学研究科の「平和構築・紛争予防専修コース」では講師を務め、広報・PR等のコミュニケーション戦略の視点から平和構築を考えるカリキュラム「ピース・コミュニケーション」を提唱している。主な著書に『なぜ戦争は伝わりやすく 平和は伝わりにくいのか』(光文社)、これまで企画、編集した書籍に『被災地デイズ』(弘文堂)、『earth code ー46億年のプロローグ』『survival ism ー70億人の生存意志』(いずれもダイヤモンド社)がある。

 

伊藤剛
伊藤剛

1975年生まれ。明治大学法学部を卒業後、外資系広告代理店を経て、2001年にデザイン・コンサルティング会社「asobot(アソボット)」を設立。主な仕事として、2004年にジャーナル・タブロイド誌「GENERATION TIMES」を創刊。2006年にはNPO法人「シブヤ大学」を設立し、グッドデザイン賞2007(新領域デザイン部門)を受賞する。また、東京外国語大学・大学院総合国際学研究科の「平和構築・紛争予防専修コース」では講師を務め、広報・PR等のコミュニケーション戦略の視点から平和構築を考えるカリキュラム「ピース・コミュニケーション」を提唱している。主な著書に『なぜ戦争は伝わりやすく 平和は伝わりにくいのか』(光文社)、これまで企画、編集した書籍に『被災地デイズ』(弘文堂)、『earth code ー46億年のプロローグ』『survival ism ー70億人の生存意志』(いずれもダイヤモンド社)がある。

伊藤剛

1975年生まれ。明治大学法学部を卒業後、外資系広告代理店を経て、2001年にデザイン・コンサルティング会社「asobot(アソボット)」を設立。主な仕事として、2004年にジャーナル・タブロイド誌「GENERATION TIMES」を創刊。2006年にはNPO法人「シブヤ大学」を設立し、グッドデザイン賞2007(新領域デザイン部門)を受賞する。また、東京外国語大学・大学院総合国際学研究科の「平和構築・紛争予防専修コース」では講師を務め、広報・PR等のコミュニケーション戦略の視点から平和構築を考えるカリキュラム「ピース・コミュニケーション」を提唱している。主な著書に『なぜ戦争は伝わりやすく 平和は伝わりにくいのか』(光文社)、これまで企画、編集した書籍に『被災地デイズ』(弘文堂)、『earth code ー46億年のプロローグ』『survival ism ー70億人の生存意志』(いずれもダイヤモンド社)がある。

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