『東京タワー』を“写生文”で書いた理由
リリー:母親が入院しているときに、僕も病院に泊まって、それこそ母親の絵を描いたり、この人のことを文章にしてみようかと書きだしたんです。でも、進まなくて。その後、柳美里さん、福田和也さん、坪内祐三さんと僕の4人が一緒に文芸誌を立ち上げることになって、それぞれが何かを連載するという話になって。
この人達の前でものを書こう思ったら、一番恥ずかしいものを書くしかないと、母親のことを書こうと思ったんです。でも、季刊誌だから1年に4回しか書かないわけですよ。書きだして難しいと思ったのは、母親が死んでまだ何年かしか経ってなくて、自分の今の感情で子どもの頃のことを書くのは良くないなと思って。
だから、物心ついたときからの時間軸で書いてるんですよ。倒置していかないというか。あと、なるべく写生文に徹して、自分のそのときの感情を入れない、今の感情で当時の感情を慮らないというふうにしました。写生文にしていかないと辛くて書けないんですよ。
澤本:小説を書かれたのはあれが最初なんですか?
リリー:短編小説はいっぱい書いていました。長いのを書くときはどういうのを書くのかなと思ったとき、やっぱり普遍的なことになっちゃったんでしょうね。短編小説はトリッキーなことばかり書いてましたから。
澤本:リリーさんは、そもそも仕事はどういう風にはじめたんですか?
リリー:イラストと文章はほぼ同時だったんですけど、イラストのほうが早くて、大学2年生ぐらいのときですかね。
澤本:イラストを描いて、それに文章をつけてというところから?
リリー:そうですね。それに文章も一緒に書くようになり。友達どうしで遊びでやっていたことが、仕事になっていくということが多かったかもしれない。友達がやっている自主制作の文芸誌にイラストつけたり、文章つけたり、友達のバンドのフライヤーや曲をつくったり。だから、小学校の友達に会うと、「ずっと同じことしてるね」って言われますよ。
澤本:昔から(笑)。
リリー:そう、学級新聞の絵を描いて、文章書いて、俺が台本つくったものをみんなでお芝居して、クラスで音楽の発表するときは俺が考えて。みんなで釣りに行っても、俺はすぐに飽きて、そこにある赤土でポコチンをつくって(笑)。ポコチンをちゃんと乾かして、カリカリに乾いた状態で釣りの帰りに駄菓子屋のアイスクリームボックスに入れて帰ったり。
一同:(笑)
リリー:子どものイタズラにしては手が込んでないですか? ちゃんと乾かしてるんですよ。インスタレーションですよね。
澤本:確かにインスタレーションだ。昔、ラジオの構成をされていたとも聞きましたけど、それはどういうきっかけで?
リリー:全然食えなかったときに編集者から「ラジオの構成作家を探してるから行ってくれば」と言われて。それで最初にやったのが森高千里さんのラジオで、この前は『万引き家族』の宣伝もあって、森高さんの番組「Love music」に行かせてもらったんですけど、一番ゲストで行きたくなかった場所でしたね(笑)。
当時は僕が27歳で、森高さんが21歳ぐらいかな。初めて僕が構成の仕事をさせてもらって、どのツラ下げてゲストで行けるかと。でも、当時は森高さんのファンクラブの会報のマンガやCDジャケットも何枚か書かせてもらったんですよ。
その頃はアイドルのラジオ番組も担当していて、メインの作家が宮沢章夫さんで、俺は宮沢さんのアシスタントをしていたんだけど、宮沢さんの書くコントがくだらなくて本当に面白くて。俺はラジオが好きで、今までこんなにラジオのコントを書いてる人いるかなというぐらい、ラジオ番組を担当するとコントを書きたがるんですよ。
澤本:そうなんですね。
リリー:ラジオは何でもできるじゃないですか。「ここは宇宙」という一言で、リスナーはすごい制作費の宇宙を想像してくれるでしょ。実写で「ここは宇宙」と言ったら、まぁショボくなりますよ。「スネークマンショー」などのコントを聞いていたので、やっぱりラジオは面白いですよね。あとラジオのパーソナリティをやるようになると、リスナーと1対1で繋がるじゃないですか。だから、今でも飲んでるやつ、うちでアルバイトしていたやつは当時のリスナーだったりしますよ。
澤本:なるほど。
リリー:出待ちしているリスナーで1人柄の悪いやつがいて、童貞のリスナーを束ねはじめているらしいと(笑)。そいつが5年ぐらいうちで働いていたかな。自然に仲良くなっていくんですよ。生放送が終わるのは朝4時ですから、それで出待ちしてるのはだいたい痛い人じゃないですか。これからごはん食べ行くからと、一緒に連れていって。
中村:ハガキ職人的なお便りを出す人でもあったりするんですか?