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僕の心を突き動かした一冊の本
僕の原体験は母親の読み聞かせなんです。小学校に上がる前くらいの記憶なんですが、母が読んでくれたのは松本清張さんとか森村誠一さんの小説でした。普通は児童書の年齢だと思うんですけど。母は「たけちゃん、これ復讐すんねんけどな……」と、子どもには分からないような話もちゃんと解説してくれて。「こんなにエグいいじめ方するんや」と子ども心に衝撃は受けましたが、今思えばかなりの英才教育でしたね(笑)。
そんな母の影響で、常に本が身近にある環境で育ちましたが、幼いころから「小説家」を夢見ていたわけではありません。むしろ大好きな「お笑い」にのめりこみ、17歳(高校2年生)のときには、漫才コンビとして事務所に所属して活動していました。ただ、スベり倒してまったく売れる気配がなかったんですね。台本を書くのはすごく楽しかったので、「もっと人を楽しませるにはどうしたらいいんだろう」と思い、関西の小劇団のワークショップなどを回って脚本の書き方を学びました。
しかし、そこで致命的な欠点が浮き彫りになりました。僕はとても集団行動が苦手だったんです。漫才や劇団のように、自分が書いたものをみんなで形にしていく表現方法にはあまり向いていなかったんですね。「エンターテインメントの世界で生きていきたい」という漠然とした夢を持ちつつも、活路が見出せずに悩んでいました。
光が見えたのが関西学院大学に通っていた19歳のとき。藤原伊織さんの小説『テロリストのパラソル』を読んで、「小説ってこんなに面白いんだ!」と衝撃を受けました。教習所の授業中だったのですが(笑)、気づいたら授業は終わっていて……。「集団行動が苦手な僕が人を楽しませるための表現方法はこれしかない」と思い、小説家を目指すようになりました。
そこから長い長い下積み時代が始まります。初めて書いた小説は、とにかく「犯人が最後まで分からなければいいんだ」と、“それまでに一度も出てきていない人が犯人” という酷いミステリーでした。読んだ友だちは「才能がない」とバッサリ。大学の4年間で長編4本といくつかの短編を書き、江戸川乱歩賞をはじめとした様々な新人賞に応募しましたが、結果は全落ち。特に長編は、自分でも納得のいく作品はひとつも生み出せませんでした。それでも、小説を書くことが楽しかったんで、「いつか『テロリストのパラソル』を読んだときのような衝撃を与えられる作品を書きたい」という一心で書き続けました。