夜討ち朝駆けが役立った、新聞社での「修業」
大学卒業後、経験を積むために選んだ職業が「新聞記者」でした。今では小説のネタになっていますが、新聞社は理不尽なこともすごく多いんです。それは入社すぐの2002年4月18日から始まりました。僕の歓迎会を開いてもらったはずが、2次会に僕の姿はありませんでした。1次会で「モノマネしろ」と言われたので無理にやったら、「面白くないから帰れ」と一蹴されて、もうそのまま帰りました(笑)。23歳の誕生日の3日前の出来事だったんで、よく覚えています。後々、その先輩は「付いてきたら面倒見るぞ」タイプで、情の深い人でもあることが分かったのですが、歓迎会はまさに「洗礼」でしたね。
阪神総局でサツ回りを担当していた1、2年目は寝る時間を確保するだけでも大変で、小説なんて書ける状態ではありませんでした。ただ、小説家になる夢は常に持ち続けていたので、後々資料として使えるようにと取材ノートに目次をつくり、取材日と取材のタイトルを記していました。計画的犯行ですね(笑)。このときの夜討ち朝駆けの経験は本当に今でも役に立っていて、小説を書くときに当時のノートを見返すこともあります。
やっと小説を書く時間がとれるようになったのが宝塚市役所担当になった3年目。休日を使って少しずつ書いていたのですが、突発的な取材の応援要請がかかることもありました。集中して書いているときにけたたましく鳴るポケベルの呼び出し音が嫌で嫌で、「早くこの状態から抜け出したい!」という想いが、執筆の原動力になっていた気がします。
2つの支局を経験したあと、6年目で文化・生活部に異動し、将棋、クラシック音楽、テレビ局などを担当しました。このとき、将棋取材の経験を活かして書いたのが『盤上のアルファ』でした。この作品が2010年に第5回小説現代長編新人賞に選ばれて、学生時代からの努力がようやく実ったのだと心の底から喜びました。
講談社から受賞を知らせる電話がかかってきたときは、「どうやって会社に報告しようか」「副業禁止だし辞めさせられるかも」という不安はありましたが。当時の編集局長が例外的に「記者も小説家も両方頑張れ!」と応援してくれて、本当にありがたかったです。
文化部長には「お前が一番詳しいやろ」と言われ、自分自身で「本誌塩田記者が新人賞を受賞」という記事を書くという、奇妙な経験もしました……。とにもかくにもこれが、僕が小説家になるまでの経緯です。
二足のわらじで踏ん張った2年間
この時点ではもちろん、書いて生きていけるほど売れているわけではないので、兼業作家として活動していました。ただでさえ忙しい毎日だったのですが、口説き落とされて労働組合の教宣部長になってしまい、議案書づくりにも追われる日々になりました。その締め切りが『女神のタクト』(2011年)と同じ日で、本当にどうなることかと思いました。せっかくなので労働組合での経験を活かして作品を書きたいと思い、2012年には『ともにがんばりましょう』を発表。連載の話など「小説家」としての仕事が増えてきていたことなどから、これをもって新聞社を退社しました。
兼業のときは、「書く環境」としてはあまりいいものではなかったのですが、そんな中でも集中できる秘訣は「音楽」でした。坂本龍一さんの曲や映画音楽など、作品ごとのイメージに合わせて選曲し、「この作品を書いているときはこの曲」と決めることで、気持ちを切り替えることができて物語の世界観にすっと入ることができるんです。この方法は今でも続けていて、『罪の声』(2016年)では映画『砂の器』のテーマ曲「ピアノと管弦楽のための組曲『宿命』」を、2018年8月発売の最新作『歪んだ波紋』は映画『善き人のためのソナタ』の挿入曲4曲を聞きながら執筆しました。特に盛り上がる場面では必須です。