「ものを書くのは、金を稼ぐためでも、有名になるためでも、セックスの相手を見つけるためでも友人をつくるためでもない。一言でいうなら、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。立ち上がり、力をつけ、乗り越えるためだ。幸せになるためだ。おわかりいただけるだろうか。幸せになるためなのだ。」─スティーヴン・キング、「書くことについて」
読書にかんする行為のなかでも、とりわけ書くことは、呪いにかけられた者に特有の行動であるようです。私は十四歳のときにカフカ『変身』を読んだのですが、わからないなりにも、そこに私の重大な関心事、世界の真実のようなものが、秘められていることだけはわかりました。それからは勉強もやらず、学校にも行かずで、まったく使い物にならなくなりました。
しかし、それから干支がひとまわりして、いまだにこうしてタイピングを続けているのですから、なんとも因果なものです。もしもカフカが生きていたら、私は彼にお礼を言わなければなりません。それから、どうしてあんな素晴らしいものを書いたんだ、おかげでおれはこうしていつも原稿用紙の前でうんうんと唸っているし、しかも生涯そうしていくことがわかっているんだ、と、冗談とも恨み節ともつかない語調で話しかけることでしょう。
いつだって文学とつながっている
私は京都造形芸術大学の文芸表現学科というところで、四年間みっちり小説の技法を学びました。どんなことを教わったのですか、とよく聞かれるのですが、考えてみると、古今東西の古典名作と呼ばれる作品について、まるでいま流行りの小説本であるかのように真剣に話す、教授陣や先輩方の、心から幸せそうな態度そのものを、学んだように思います。「この小説は、こういうところが面白いと思う」「僕はこういうところも面白いと思う」こんな会話を何遍繰りかえしたことか、わかりません。幸せでした。
読むという行為は、孤独なものと考えられがちです。しかしながら、たとえ現世に友達がひとりもいなくても、読書は、本質的には孤独な行為ではありません。なぜなら私はここで、十九世紀のアメリカ詩人、ウォルト・ホイットマンを引用することができます。「友よ、これは本ではない。この本に触れる者は人間に触れる」。このホイットマンの歌声そのものが、そもそも孤独に苛まれていません。また、こうして彼の歌声を引用する私も、本質的なところで彼、あるいは彼の属する文学の伝統と繋がっています。
だから私が大学を卒業したのち、あまり進路について悩むことなく、さらりと一般企業に就職して営業マンになったのも、とにかく文学とつながっているという安心感があったからです。たとえ同僚に文学好きがおらず、孤独に読み続けることになろうとも、なにを心配することがありましょうか。同僚たちは外回りの休み時間に、景色を見に行ったり、買い物をしたり、喫茶店でくつろいだりして過ごしていましたが、私はいつも本を読んでいました。そうすることが、心から楽しかったからです。