【前回コラム】「これからは、住まいが経済圏に。京都の外れで次のルールを作る。」はこちら
<最終回>
かたちラボ・コピーライターの田中です。ぼくが昔からずっと好きなメディアや媒体はWEBなら「ほぼ日」、紙媒体ならスタジオジブリが発行する「熱風」。グループアイドルが面白いと思っていた時は「BUBKA」を手に取っていました。これらは独自性あるメディアや媒体である以上に、あふれんばかりの熱量を感じます。それは編集長、つまり旗を振る人が面白く、その人のもとに魅力的な人が集まっているから。今回は大阪を拠点に写真家として活動しながら、熱量あるメディアを立ち上げて運営をしている方のお話です。
写真家 平野愛さんの場合
「関西で戦う。クリエイターの流儀」第14回目に登場していただく平野さんの肩書きは「写真家」。当然、撮影を生業としているのですが、実はUR都市機構が手がけるウェブマガジン「OURS.KARIGURASHI MAGAZINE(以下、OURS.)」の仕掛人でもあります。仕事の作り方や人の巻き込み方をお聞きして、もし平野さんにキャッチコピーをつけるとしたら、「戦国武将系プロデューサー」。そんなプロデューサーとしてのB面も持つ平野さんから「OURS.」ができるまでのお話を中心にお聞きしました。
平野愛
2000年より舞台写真家として活動。2008年、ご自身のパートナーと「株式会社 写真とプリント社」を設立。現像所も兼ね、写真家としてもフィルム撮影にこだわり活動。2015年にUR都市機構のウェブマガジン「OURS.」を立ち上げ、現在も毎日記事を更新。2017年に「株式会社 フォトアンドカラーズ」に社名を変更し、さまざまな企業と一緒にメディアを立ち上げるプロデューサーとしての活動も活発化。
大阪から毎日更新!大人気ウェブマガジン「OURS.」ができるまで。
「OURS.」とはUR都市機構が手がけるメディア。「借り暮らし」をコンセプトとし、賃貸の家や団地の風景写真や映像作品、暮らし方を伝える記事などコンテンツの種類は多岐に渡ります。しかし、WEBサイト内には直接的な広告や企業名は見当たりません。まずは、そんな不思議なメディアがどのように立ち上がったのかをお聞きしました。
—そもそも写真家の平野さんが中心となりUR都市機構のウェブマガジンを立ち上げるきっかけって何だったのですか?
平野:あえて言えば2012年に「団地に住もう!東京R不動産(東京R不動産/日経BP社)」という書籍の中で写真を撮ったのがきっかけですね。「団地DIY」という企画でUR都市機構の方とご一緒しまして、とても熱い方々なんです。その方々が色々と掛け合われて、団地を盛り上げていこう!という企画が生まれ、私も参加することに。団地の風景を撮影していくうちに団地の可能性やカルチャーとの相性の良さを感じてきて、ある日団地の中にあるラーメン屋で激論を交わしまして。
—団地の中にラーメン屋があるんですか!?
平野:大阪府・箕面市の北緑丘団地にある「やよい亭」というお店です。で、そこでラーメンとチャーハンを食べながらメディア論をバシバシと戦わせていただく機会があったんです。そのことを担当者の方が覚えていてくださって、後にウェブマガジンを立ち上げる計画の中で代理店さんも含めていろんな線がつながって編集部の原型になっていきました。
—プロデューサー的な部分も感じますが、実際、そういう役割は好きなんですか?
平野:みんなで取り組むことが好きなんですね。実際に今もある企業と一緒にメディアのチーム作りを進めている最中です。企業が主体となって自走できるように進めていくことを常に意識しています。外部パートナーや制作者が一生懸命やるというのはもちろんいいのですが、当事者の方々がしっかり物を見て、自分たちで発信できる状況の方が面白いなと。「OURS.」も、UR都市機構の方々とネタや企画を考えています。土台作りが好きだし、写真を撮る時も同じような気持ちで取り組んでいます。
—写真家になる前から、そんな感じだったんですか?
平野:たぶん、祖父の影響ですね。祖父は京都の新聞社の創成期に携わった、バリバリのプロデューサーでジャーナリストだったんです。子どもの頃から新聞まみれで育ったというところもあって、物を作って届けるというのが普通のことだと思っていました。小学生の頃に、歯みがき週間や体育週間なんかにポスター描きますよね。あれ、全部自分が担当していましたね。6年間で50枚くらい書いていました。あと、背伸びして8mmビデオを使って姿勢を良くする体操のPVや壁新聞も作っていましたね。
—昔からメディアで発信することが好きなんですね。でも、結局1人ではPVや新聞は作れないので、誰に何をまかせて、どんな人を巻き込んでいくかというプロデューサーのような動き方をしていますね。
平野:そうです!この人に書いてもらったら面白いとか、小学生の頃からやっていました。
—今とやっていることが一緒(笑)。
平野:そうそう。ずっと同じことをやっています!
—子どもの頃からプロデューサーとしての資質を発揮していたのですが、そもそも写真家としてのキャリアはいつからスタートするのですか?
平野:京都造形芸術大学在学中に『批評空間』(太田出版)という雑誌に抜擢されて、そこからは芝居やダンス、伝統芸能を中心とした「舞台写真家」として活動しました。
—写真家デビューとして申し分ないですね。ちなみに、写真を始めたのっていつからなんですか?
平野:大学生の時です。
—え。大学生の時からカメラを初めて、在学中から仕事がバンバン入るようになったんですか。すごい!
平野:タイミングが良かったんだと思います。実は、私が入学した時に大学に写真部がなくて。なので、先輩と2人で立ち上げました。
—写真部、作っちゃったんですか。
平野:部員を100人ぐらい集めれば部費だけでもそれなりにまとまったお金ができるので、みんなで面白いことができるかもと。宣伝をしたらうまくいって本当に100人部員が入りました。京都って今もそうですが、当時もアートマーケットや手づくり市が盛んです。そこで撮影した写真のポストカードを売ったら飛ぶように売れました。
—人とお金を集める才能がハンパないですね。最高のプロデューサー!いわゆる写真家がやることではないですよね。でも、写真を撮ったらポストカードにして売るとか、「OURS.」のような場所で掲載するとか、土台というか舞台を整えていることを重視している気がしますね。
平野:今、主に住まいを撮影しているのですが、私自身きっちりしたインテリア写真は撮れないし、照明を使って撮れないし、撮れないことづくしで。だとしたら舞台は自分で作らないと、仕事がないって。
—舞台写真家として活動され、2012年にUR都市機構の方とお会いしたのがご自身の転機だったんですよね。
平野:担当者さんと会う前に、転機というか事件がありまして。それが、2009年事件です。
—なんなんですか!その惹きつけるタイトル(笑)。
平野:2009年に大好きな雑誌『Lmagazine』(京阪神エルマガジン社)が休刊したんです。
—以前、「関西で戦う」に登場していただいたIN/SECTSの松村さんも『Lmagazine』休刊が反動で、ローカルカルチャー誌を作りましたからね。関西のアートやカルチャー好きにとっては相当衝撃だったんですね。
平野:高校生の頃から大ファンで。写真家として活動し始めて目標の1つが『Lmagazine』の表紙を撮影すること。本誌で演劇を紹介するページの写真を撮れるようになって、アート関連も任されるようになって、ついに巻頭特集まで撮れるようになって。いよいよというときに雑誌が休刊・・・。
—休刊の気配はあったんですか?
平野:『Lmagazine』に限らず、雑誌休刊が相次いでいた時期でした。関西で活動しているカメラマンも東京に拠点を移す人もいて。同時に私も岐路に立たされて、今後を考えるときでした。そんな頃、出産して仕事に復帰したのですが、ちょっと過酷な環境で撮影をしたら1ヵ月くらい熱が40度から下がらなくて。あとで医師に聞いたら6つくらい細菌に同時感染していたそうです。この年から約2年間活動を休止しました。これが私の2009年事件です。
—怒涛ですね。順風満帆にキャリアをスタートさせたのですが、大きな人生の転機だったんですね。
平野:で、休んでいる間にも何か発信したくて。
—発信は止まらないんですね。
平野:写真と文章をブログにあげていました。「days & goodbye」というさみしいタイトルで(笑)。そうしたら今度は、ブログを読まれた出版社から文章の仕事を頼まれたりしましたね。2年間は主だった活動は何も。ちょうどいいリセット期間になったんでしょうね。そこから一気に爆発したんです!
—あはは。バナナマンの設楽さんが提唱している「チョロQ理論」ですね。バナナマンも世に出ない時期があって、その頃はチョロQが走り出すためのタメの期間で。人間、チョロQのようにいったん下がることが大事ってやつです。
平野:それいいですね。私もチョロQでした。
—そこからいよいよ「OURS.」の産声が上がるんですね。
平野:ま、一筋縄じゃいきませんけどね。