スーパーで4年間働きながらビートボックスに打ち込む
ヒカキン:その頃はそうでしたね。あれは10年前ぐらい、2008、2009年ですね。今でもよく気づけたなというか、やっぱり早くからやっていた先行者利益的なものはあります。そもそも、幼少期からビートボックスが好きだったことが、運がいいんですよね。特に2007、2008年くらいが海外を含めてビートボックスを動画で披露するのがバズっていたんですよ。
僕はたまたまそこにうまく乗れて、日本で動画を上げているけど、海外からの視聴でビュー数を得ていました。それを仕事にするというときに、頻繁に投稿しないとユーチューバーには簡単になれないとわかって、そこからHikakinTVというチャンネルをつくって、日常を動画にして上げていったんです。
権八:最初の最初は何だったんですか?
ヒカキン:ビートボックスでマリオをやったのが1つ目のバーンといった瞬間でしたね。
中村:行く前はどんな感じだったんですか?
ヒカキン:その頃はビートボックスの動画しか上げてなくて、月に1本上げればいいぐらいでした。というのは、バズるビートボックスの動画って、「こいつやべー!」とならないと拡散されないんです。なので、何の曲をやるか考えて、1カ月ぐらいゆっくり練習して、うまく撮れて、音質を編集してアップするので、ビートボックスの動画をハイクオリティで毎日上げるのは不可能に近いですね。
権八:当時、10年ぐらい前から再生回数を伸ばさなきゃいけないと、そういう意識があったんですか? 動画を上げようと思ったきっかけは? テレビも出ていたときありましたよね?
ヒカキン:テレビは動画が話題になってから出た感じです。動画は高校生の頃にユーチューバーを見つけて、ビートボックスの動画を見るために見ていたんです。まだYouTubeが英語対応しかされていないときで、その頃から海外のパフォーマーの動画を見ていて、だいぶ後になって日本語に対応しました。
中村:その後ですね、HikakinTVを皮切りに、毎日のように動画をアップしていこうという流れができて。1つの転換期ですよ。
ヒカキン:そうですね。当時、トップの日常系のユーチューバーが毎日やって伸びていたんです。それは「伸びる」と見てわかるというか、間違ってないとすぐにわかったので、自分もちょうどそのタイミングで会社を辞めたんですよ。フルタイムでできるようになったので、毎日でもいけるかなと。
中村:差し支えなかったら、前職は何をされてたんですか?
ヒカキン:僕はスーパーで働いていました。上野付近のスーパーで4年間、働きながらビートボックスを深夜クラブでパフォーマンスしたりしていて、かたわら動画も続けていたら、そっちでうまく行けたという感じですね。
中村:すごい。
権八:海外のヒューマンビートボックスのすごい人達を見て、研究しながら、自分も撮って動画を上げようという最初のモチベーションは何なんですかね? 負けないぞという感じ?
ヒカキン:それはちょっとあったと思います。俺もいけるぞと。ヨーロッパのほうはサイボーグみたいにうまい人がいっぱいいるんですけど、自分も近いレベルでできるんじゃないか、見てほしいと思って。よく「友達や先生に見られるのを気にしなかったの?」と聞かれるんですけど、そもそも僕がはじめた高校生の頃はYouTubeを誰も知らないんですよね。
権八:そうですよね。
ヒカキン:スマホもないので、まず見られないんですよ。すごい再生されても学校で知ってる人はほとんどいませんでした。