「Advertising Week Asia 2019」開催記念 広告界リレーコラム①

2004年に米国・NYでの開催に始まった「Advertising Week」。2016年には東京でアジア初となる「Advertising Week Asia」が開催された。2019年5月27日から30日には4回目となる東京での開催が予定されている。
日本の広告界を代表する210名のアドバイザーが参画をし、いま日本の広告界が議論するテーマを持ち寄り、企画される「Advertising Week Asia」。そのアドバイザリーボードのメンバーたちが今、日本の広告界が向き合う課題、そして希望についてリレー形式で語っていく。
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平成に見た進化 センスからデータへ

【執筆者】
マッキャン・ワールドグループ ホールディングス
チーフ クライアント オフィサー
アントニー・カンディー

日本在住が長く、東京大学大学院卒業後、2000年に博報堂リンタスに入社、ユニリーバ、ネスレ、ジョンソン・エンド・ジョンソン、GM等のブランドを担当。その後、DDBで日本オフィスのジェネラル・マネージャーとしてフォルクス・ワーゲン、フィリップスなどのブランドに携さわり、DDBヨーロッパにてマクドナルドのヨーロッパ全体のストラテジーとアカウント・サービス担当。2010年に日本戻り、ビーコンコミュニケーションズのエグゼクティブビジネス&ストラテジーディレクターを経て、2014年にワンダーマン インターナショナルの代表取締役社長。現在は、マッキャン・ワールドグループのクライアントに対して的確で効率的なソリューションの提供を指揮。

 

平成の広告界を振り返る

私が日本に住み始めたのは、平成7年(1995)6月なので、平成という時代を振り返ると言っても一部しか語ることができませんが、社会的にも業界的にも大きな変化を遂げた31年でした。20年間、日本の大企業の影で戦う外資系広告会社または日本の広告会社との合弁会社での勤務を経験し、その観点から書かせていただきます。

余談ですが、平成11年、東京大学大学院で私が書いた論文は、カルロス・ゴーン氏の欧米型経営と日本型経営の比較についてでした。私にとって平成は、予測不能な終わり方であったと感じています。

平成は、時とともに身の回りのテクノロジーが変化した時代でありましたが、私にとって一番大きな変化は社会の細分化です。これによって、我々の業界のメディアやマーケティング戦略が大きく変わりました。かつての経済成長期において、日本の社会全般の生活の質は豊かになりました。団塊世代や集団旅行はその代表的なものであると思っています。その頃は、平和と平等を表した「平」社会だったと思っています。

さて、私の経験した平成前半には、メディアのチャネルも限られて、キャッチフレーズや誰もが知っている音楽はラジオとテレビから伝えられていました。今でも当時のテレビCMの音楽と歌を思い出すことができます。しかし、IT革命によって情報源は想像がつかないほど拡大されました。これによって、私たちの業界は文化をつくる立場から消費者をフォローする立場になりました。

「集団」から「個人(一人)」社会へ

日本に来る前は、日本人の集団行動は海外で有名でした。しかし、日本に来て間もなくその平等に見える社会の亀裂のはじまりが見えてきました。私が最初に日本で住んでいたのは千葉県の木更津市でした。当時は文部科学省の招待でイギリスから英語の助手の仕事で来た私には故郷に近い街でした。が、バブル崩壊直後でしたので、一番印象的だったのは、デパートのそごうが突然閉店になったことでした。街の中心にあった店だったので、市民の誇りが傷つけられたと感じました。

『平』社会がこの時期、壊れたと思っています。経済的には、縦社会になりました。お金があるかないかの格差はここから始まり、その格差は高齢化とともに進んでいきました。わかりやすい例で言うと、カラオケがあげられると思っています。大人数で友達と一緒に楽しむ風習から現在は一人専門店が増えています。結婚する人の割合も同じように減少していきました。

金銭格差を縦軸とすると今度は横軸の出番。横軸はデジタル革命から生まれた生活だと思っています。昭和は世界を旅して、実感する時代でしたが、平成は実際に旅をしなくても世界を楽しむことができる時代となりました。www.の仮想空間の中では、自分がどんなことをしても、許される世の中になりました。この縦軸と横軸の中に消費者を見つける、そして情報を発信することが大変難しくなりました。そのやり方自体も大きく変わってきたと思います。

センス(感覚)からデータを通してのジャーニーへ

私がこの業界で最初に入った広告会社は、イギリスと日本の広告会社との合弁会社でした。当時、日本の業界では、クリエイターたちの好みやセンスでキービジュアルとテレビCMをつくっていました。専門家ではない得意先を納得させて、制作に進みました。しかし、海外ではキャンペーンの戦略はインサイトプランナーによってつくられ、専門のマーケターにプレゼンしました。量的そして質的調査をかけて、制作期間により時間をかけました。

日本では得意先の専門性が高まった平成後半に、そのプランニングがパネルデータに基づくようになりました。最先端の広告会社は皆大きなパネルをつくり、そこから得たインサイトによって得意先の合意を得ていました。そのパネルの必要性は、先ほど書きました社会の細分化によって必要となりました。今でもその量的サポートが必要とされています。

メディアの選び方にそのデータは特に重要でしたが、「データ」と「インサイト」の勘違いが起こりやすいと感じました。データはあくまで何が起こっているかという消費者の行動を測っているだけで、なぜそうなのかに迫っているわけではありません。

もうひとつの大きな変化は広告の事前のテストです。データで消費者の声を反映することが主流になり、制作物はマスで理解することが必要になりました。広告会社の人間は広告主側ではなく、より消費者側に立つことが重要になりました。

平成の後半には的確なターゲットを見つけ、その人たちの毎日の行動を測りながら一番メッセージを受け入れやすいモーメントを確定。データの重要性はさらに増すとともに、自信とセンスの優先順位が低くなりました。メディアに台頭してきたROI(費用対効果)の概念はキャンペーンそのものの役割として課され、広告においては効率性だけではなく、効果という軸も重要な指標となってきました。

最後に。冒頭で書いたように私にとって平成という時代は社会の細分化に見えた31年でした。現在、先進国に見える社会問題が、これによって日本にも起こる可能性も高いと感じています。その細分化しつつある中には、私たちの業界は大きな役割を果たすこともできると信じています。メディアの効率性を求めることがさらに加速するとともに、透明性の重要性もさらに求められると思っています。

ただし、こういう機能的な仕事以上に、人々をもう一度(一致団結)させる大きなアイデアが、令和の代表的なことになることを願っています。みんなが知っている、みんなが納得する意義のあることはブランドにとって、そして国にとっても最も重要なことと思っています。

そうです。まるでBack to the Future.

Advertising Week Asia 2019
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