【前回】「よそ者によるよそ者のための福岡転勤者講座 その①(初級編)~~基本を理解しよう~~」はこちら
福岡在住は1982年から断続的に通算16年目になる。それでも江戸っ子の筆者はこの地では「よそ者」。よそ者同士としての心得を以下に記す。博多を代表する祭り「博多祇園山笠」、独特のリズムの「博多手一本」、ハレの舞台で唄われる「博多祝い唄」等々、福岡の伝統文化についての解説はウェブ上にも満載だ。それらに一応目を通して基本知識は修得した中級者向けの解説としたい。
まず博多祇園山笠。締込み(NG・フンドシ)、山(NG・ミコシ、ダシ)、舁く(NG・カツグ)、見送り(NG・ウラ)など正しい用語を使うのは基本中の基本として、期間中山はご神体として祭られている(神事だから当然だ)ことを理解し敬意を持って接するのが肝要。ドラえもん、ゴジラ、ソフトバンクホークスなどが飾られていても神様は神様なのだ。
博多手一本。リズムはYouTubeですぐに体得できる。山笠の諸行事後の直会では概して速いテンポだが、一般には結構ゆったりと行う。意外に知られていないのが、「手のひらを上に向けない」という作法。これは地元民でも間違える人が多い。
それよりも大事なのは手一本はまさに「締め」だという認識だ。東京では三本あるいは一本締めの後拍手するのが慣例だが、博多手一本ではこれはダメ。飲食、仕事話の続きなども全てご法度。手一本はDeal Doneなのだ。「蒸し返し」「やり直し」は一切なし。「手を入れた」後はその場を立ち去るのみ。(厳格には。)
博多祝い唄。1番(祝いめでた~の)、2番(こちの座敷~は)は大抵の場合同じだが、3番(以降)をどのバージョンで行くかは状況による。通常は「こちのお庭に」が多い。山笠など櫛田神社関係ではもちろん「櫛田のぎなん」。結婚式では当然「だんな大黒、ごりょんさんな恵比寿(えべす)」、金婚式では「ともに白髪の生ゆるまで」となる。本当にいい唄なので是非すべての歌詞を覚えたい。
特に注意喚起したいのが「博多」と「福岡」の区別。博多は古来より開け、日宋貿易で発展し、豊臣秀吉が「太閤町割」で整備した古き町、福岡は黒田長政が開いた城下町で本来別もの。両者は並列すべきものだ。その意味で「福博のまち」という表現はお奨めだ。ただ現在は全体が「福岡市」という行政区になっているので「博多」(概ね現在の博多区)が「福岡」の一部分だという認識は、(よほど頑固もんの博多オヤジでない限り)地元民も共有している。
しかしながら、那珂川より西の部分は決して博多ではない。「博多」は「福岡」の別名ではないのだ。従って「今福岡に来ています。博多駅前にいます。」は何とか許されるし、「キャナルシティ博多」の中に「グランドハイアット福岡」があるのもまあ仕方がないが、「今天神にいます。博多のまちの中心です。」はアウトだ。微妙にダメではなく完全にNGだ。天神の所在は福岡で、絶対に永久に博多ではないからだ。
同様に「博多のシンボル・ヤフオクドーム」や「博多の憩いの場大濠公園」も相当の違和感だ。「江戸」は現在使われない地名なのでたとえとしては不正確だが、「田園調布は江戸の高級住宅地」と同じくらいおかしな表現と思ってほしい。ちなみに本籍浅草、育ち日暮里、墓は根津の筆者は山手線の西側は東京(江戸)とは思っていない。(失敬!)
次に地元ことば。「好いとう」はよそ者の男が博多っ娘から言われてみたい言葉の第一位とされる。ネットでもそう出ている。酔灯屋(すいとうや)という店だってある。ところがあるとき職場の女性から「そんな言葉今は使わん。」と言われた。事態の重大さに鑑み、フェイスブック上で緊急アンケートを実施した。
「食べ物には使うが異性には使わん。」「『好かん』は使うが『好いとう』は使わん。」「おばあちゃんは使ってた。」等々圧倒的に「使わない」との反応だった。(唯一博多区在住、山のぼせ40代男性から「うちでは使っている」との回答あり。)「好いとう」は中洲のプロ専用と観念した方がいいのかもしれない。これに限らず地元言葉は理解不能、深入り無用と心得るべし。
これはダメ、あれもダメという話ばかりになってしまった。でも心配ご無用。地元民はよそ者で福岡経済が潤っていることをよく認識している。東京等からの出張者、単身赴任者、いまどきは近隣アジア諸国からの観光客。これらをうまく転がすのが福岡もんの得意技。
われわれよそ者は「何も知らないので宜しくお願いします。」と頭を垂れればいいのだ。知ったかぶりは禁物。「何もわかっていない」ことを自覚し、伝統文化を心から尊敬し、その気持ちを全身で表せばいい。簡単なことだ。こちらも福岡もんをうまく転がして福岡(博多?)生活を大いに楽しもう。
石井 歓(イシイカン)
事業構想大学院大学福岡校特任教授。西日本新聞社取締役(ビジネス開発局管掌)。日本ピストンリング社外取締役。3足のわらじで老骨に鞭打つ。日本政策投資銀行に33年間勤務の後、倒産したJALの再建に参画。2011年福岡に移住後は福岡地所、続いて西日本新聞社の経営に携わる。