ポイントは「共感のつくり方」?
—振り返ると「社会課題の解決」や「逆転の発想」をベースにした例が目立ちましたね。コロナ下での広告制作は、どんな点がポイントになると感じていますか。
佐々木:数年前から“パーパス祭り”が起きていますが、コロナ下ではCSR 的な大きなパーパスが響かなくなっています。ユーザーに近いところに設定された共感を生むパーパスであれば巻き込めるし、そうでないと空回りする。先ほど皆さんが挙げられた事例も、共感のつくり方がうまくいった例なのではないでしょうか。
木村:ネガティブをポジティブに変換する、という流れもあるかなと思います。アメリカのバーガーキングの、オンライン会議の背景をバーガーキングの屋外看板の画像にするとワッパーがもらえる「HOME OF THE BILLBOARDS」という楽しいキャンペーンも、そのひとつかと思います。
「リアル」や「ライブ」というのもキーワードかな。ライブコマースが大流行している中国は、“店”ではなく“人”が物を売る方向にシフトしました。編集されたストーリーは信用できないけれど、誰かのライブな喋りでリコメンデーションがつくとすごく信用される。フィルターのかかっていないリアルタイムものが流行っている印象です。
コロナ下ではDXが加速したと言われますが、ダイバーシティ&インクルージョンも加速化していると感じます。日本赤十字が絵本の形式をとったように、消費のキーパーソン以外にも届くコミュニケーションが求められているんです。「感染」という切り口で見ると、マイノリティといわれる人たちもキーパーソンになるから。世界中で、“誰も置いていかないコミュニケーション”が進んでいる印象を受けます。
原野:コロナ下か否かにかかわらず、いい広告にはルールがあると思っていて。いい広告やブランドというのは、自分のことではなく自分が愛するものや思い描く未来を表現しています。それを「パーパス」という人もいるかもしれません。
その点、日本の広告は自己紹介的な表現から一歩抜けられないように感じます。ACCでも多くの作品を見ましたが、やっぱり最後に自己紹介しちゃう。ナイキの広告はスニーカーの話なんてしませんから。
プロダクト発想からパーパス発想へ
—商品やブランドではなく、企業全体のパーパスやビジョンにもとづいた広告クリエイティブが増えているように感じます。この1年で広告に求められる役割も変化しているのでしょうか。
原野:僕はパーパスというものが、いまいちしっくりこないんですよね。パーパス、ミッション、ビジョン、バリューという価値ピラミッドをつくること自体が目的化しているケースも目立つので。そこも含めて、広告は過渡期にあると思います。
僕は“お茶の間広告”と呼んでいますが、1980年代以降の広告は、家族がこたつでみかんを食べながらテレビを見ている前提でつくられてきました。でも、もう日本にお茶の間はないんです。シングルマザーや非正規雇用労働者など様々な人がいる前提で広告をつくることの意味を問い直すタイミングにきていると思います。
最近炎上している広告は、簡単に言うと「お茶の間広告」なんです。クライアントもクリエイティブも、お家芸みたいに続けてきた前提を変えないといけない。消費者の意識の方が進み始めているぶん、「いつまでそんなことやってるの」と言われてしまうんですね。
木村:僕も穴埋め的にパーパスをつくるのは意味がないと思うけれど、プロダクト発想からパーパス発想へ向かう流れは確実にあると思う。プロダクト発想とは“できること”の競争、つまりケイパビリティ発想です。パーパス発想は、社会的な意義として“求められること”に軸を置いているんです。
フランスの経済学者であるジャック・アタリが「生命の産業」という言葉を使っていますが、コロナがもたらしたものは、命に関わる・命を守るための産業の価値が高まるということだと。そうなると、できることを自慢している場合じゃない。「社会においてどんな役割を担うか」というパーパスが求められています。カンヌを見ていても、4〜5年前はとにかく発信することがトレンドでしたが、今は敵をつくって闘うような、より明快なアクションをしないと存在意義が確立できないところまできている。
佐々木:バーパスについては木村さんの言う通り、安さや性能の自慢ではなく「何のためにやっているか」をきちんと発信するというのはいい進化ですよね。ただ、原野さんの言うようにファッション化しているというか、真似で満足している危険性もある。
木村さんが挙げたベネッセの「きょうの時間割」のように、広告屋が広告ではない場所をつくる時代にもなっているのではないでしょうか。構造がガラリと変わり“国”という存在すら危うくなってきた中で、危機感を持って広告という構造自体を変革しなきゃなと感じます。