あなたは顧客をどのくらい知っていますか?
突然ですが、あなたは自社の商品やサービスの顧客、あるいはお店の利用者のことをどのくらい知っていますか?どんな性別、年代の人が多いのかは、よほど現場から遠い役職の人でなければイメージがつくのではないでしょうか。
では、その人たちがいつも他にどんな買い物をしているか知っていますか?交際費にどのくらいお金をかけて、どんなニュースを見て、どんな恋の悩みや夫婦喧嘩の種をかかえているか、あるいは誰と何をしている時に歓びや幸せを感じるかについてはどうでしょうか。
普段ビジネスの現場にいると、どうしても私たちは商品やサービスを購入してくれる顧客を消費者という一面だけで見てしまいがちです。しかし、世の中の人々は商品やサービスを購入するためだけに生きている訳ではありません。会社員であったり、自宅に帰れば二児の母で、地域ではボランティア活動をしているかもしれません。
顧客を単に「消費者」として捉えるのではなく、多様化した社会の中で主体性を持って生きる存在、「生活者」として捉えた時に、その人たちのことをあなたはどのくらい深く、多角的に理解できているでしょうか。
最近、新たに“発見”した顧客の特徴や変化はありますか?
生活者を多角的に理解するといっても、これは並大抵のことではありません。そもそも、他者を完全に理解することなどできないからです。
でも、それが家族であれ、友人や恋人であれ、注意深く相手と接したり観察をしていると「今まで気づかなかったけど、実はこういう一面があるんだな」、「今までは違ったけど、最近こんな趣味ができたんだ」というような新たな特徴や変化が何かしら見つけられるものです。
では、顧客を含む世の生活者についてはどうでしょうか。最近、生活者についてあなたが新しく“発見”した特徴や変化はありますか?同僚に話したくてたまらなくなるような発見が何かなかったでしょうか。
この問いの答えがすぐに思い浮かばなかった人、思い浮かんだけれどそんな素晴らしい発見をもっとしたいという人のために、本書は書かれました。
生活者発想の専門組織、博報堂生活総研
私たち博報堂生活総合研究所(以下、生活総研)は、博報堂のコーポレートフィロソフィーである「生活者発想」を具現化するため1981年に設立された研究所です。設立から約40年間にわたって、生活者を様々な手法、切り口で見つめてきました。「生活者発想」とは、人間を“消費者”としてではなく、“生活者”として全方位的に捉え、深く洞察することで新しい価値を創造していこうという考え方です。
それを実践する上で私たちが重視しているのが、20〜30年という単位で継続的に実施している長期時系列調査と、街頭や家庭といった生活の現場を観察したり、そこで暮らす人々の声をインタビューで深掘りするエスノグラフィの手法です。
どのような価値観を持った人々が、家族や友人、仕事仲間たちと日々どんな暮らしをしているのか。どのような場面で歓びや幸せを感じるのか。平日や休日、どんな情景の中で何を感じ、どんな汗をかいているのか─。人々の“生活”をまるごと観れば、その壮大な物語の中に商品・サービスを提供できる、価値を提供しうる新たな機会が無数に見えてきます。
冒頭で「人を啓発するのは答えではなく、問いだ。」というフランスで活躍したルーマニア人劇作家のウジェーヌ・イヨネスコの言葉を紹介しましたが、「生活者発想」とは新たに発見した生活者の欲求や変化の兆しを「問い」に変換して社会に投げかける営み、と言うこともできるでしょう。
効率化、最適化マーケティングの限界
先ほどの質問で、「そういえば近頃、お客さんの生の声を聞く機会って減ったかもな…」と思われた方もいるのではないでしょうか。
生活のあらゆるシーンがデジタル化していく中で、検索ログやアクセスログなどのWeb行動データ、GPSの位置情報データなど、私たちの様々な行動がデータとして記録されるようになってきました。その結果、広告など商品の情報に触れた時に私たちがどう反応したか、あるいはどんな行動をしている人が特定の商品の情報に反応しやすいか、ということが可視化されるようになりました。その結果、多くの企業でそのようなビッグデータ活用に重点を置いたマーケティング手法「データ・ドリブン・マーケティング」が標榜されるようになってきています。
ビッグデータをベースに、効果が最大化されそうなターゲットに向けて複数のタイプの広告を配信し、結果をもとにその中でもさらに効率的、最適な施策に集中していく、そんな業務がマーケティングの中でも多くの割合を占めるようになりました。このようなPDCAを高速かつ精緻に行っていけるのは、膨大かつ多様なデータがリアルタイムに更新されていくビッグデータあってこそです。データ・ドリブン・マーケティングは、ビッグデータの特徴を活かした優れたマーケティング手法であることに間違いはありません。
しかしながら、商品開発やマーケティングに関わる現場からは「マーケティング施策を効率化することはできても、新しい商品や企画のアイデアにつながる発見ができない!」という声をよくお聞きします。施策のPDCAサイクルは回すことができても「生活者の中に生まれている欲求や意識、インサイトを深掘りできず、新たな発想の視点が見つからない」という課題があがっているのです。
新たなアイデアや企画の糸口が見つからなければ、同じような施策を繰り返すしかなく、いくら効率化、最適化を進めても、そのうち効果が逓減していくのは避けられません。これはビジネス上のリスクであると同時に、新しい価値提案が生まれないのは生活者にとっても幸福なことではありません。
ビッグデータで生活者を発見する手法、デジノグラフィ
そこで私たち生活総研が研究を進めているのが、デジタル空間上のビッグデータをエスノグラフィの視点で分析し、生活者の見えざる価値観や欲求を発見する新手法「デジノグラフィ」です。
約40年にわたって生活者の欲求や変化を掘り起こしてきた専門組織として、施策の効率化、最適化のためではない、新しいアイデアを生み出すために考案した、いわばビッグデータ活用の別解とも言うべきアプローチです。
そして、デジノグラフィはこれまでの手法では知る術のなかった生活者の実態をあばく2つの特徴を有しています。
一つは、分析対象が主に生活者の行動データや生声のデータであるということです。そのため、アンケート形式の定量調査やインタビュー形式の定性調査では、建前によって隠されてしまうことのある本音が全てさらけ出されるのです。
もう一つは、生活者の実態を今までになくクリアに浮かび上がらせる、データとしての「解像度の高さ」です。既存の手法の比ではない、何万、何十万もの対象者のデータが分析できるというデータ規模の大きさだけでなく、様々な種類のデータが紐付いていることで、多角的な分析が可能となります。また、毎日あるいは毎時でデータが更新されることも多いため、鮮度の高いデータ分析が可能となるだけでなく、生活者の欲求が特に高まるタイミングを今までよりも格段に細かく、ピンポイントに指し示すことができるのです。
このデジノグラフィならではの特徴は2章、3章で、生活総研がこれまでに実施してきた豊富なデジノグラフィの研究事例と共に解説します。
デジノグラフィは誰にでもできるビッグデータ分析手法
また、本書を手に取った方の中には、ビッグデータ分析が未経験の方も多くいらっしゃるはずです。ビッグデータ分析と聞くと、特別な解析やプログラミングのスキルが必要だと考える人も多いのではないでしょうか。それに「そもそも、ビッグデータってどこにあるの?」という方もいるでしょう。
確かに、ビッグデータを基にシミュレーションのアルゴリズムを作ったり、複雑な自然言語処理技術を使った分析を一から行うとなると専門家のスキルが必要になるのは事実です。しかし、ほとんどのデジノグラフィの技法はスキルとしては「エクセルがある程度使えれば十分可能」な非常にシンプルなものです。そもそも、生活総研では定量調査の分析でも(もちろん技術的には可能なものの)、クラスター分析や重回帰分析などの複雑な多変量解析をほとんど採用していません。それは、分析結果のデータが自分たちの手を離れ、社会に流通していく時に、その分析手法が全ての人が理解できるシンプルなものでなければデータを結局信じてもらえないからです。また、SNSに投稿された文章や画像など数値ではないデータについても、最近ではプログラミングスキルが一切必要ない分析ツールが多数利用可能となっています。
そして、社内に蓄積されたビッグデータがない、あったとしてもアクセスするのが困難だという方も利用できるオープンなビッグデータ解析ツールが、近年は有償のものから無償のものまで数多く出揃ってきています。このあたりは1章でも詳しくご紹介します。
研究員の暗黙知を、誰もが活用できる10の技法へ
ただし、デジノグラフィで新しい発見ができるかは分析者の“視点の切れ味”にかかっています。そしてそれは、施策効果の分析から効率化や最適化を行う際の視点とは全く異なっています。やみくもにビッグデータに向き合っても、膨大なデータの海に埋もれるだけで新しいアイデアにつながる生活者のインサイトを発見することはできないのです。
それはデジノグラフィに限ったことではなく、定量・定性調査でもエスノグラフィ的なフィールドワークでも同じことが言えます。生活総研の研究員は、5年、10年という期間をかけて、生活者の欲求や変化を読み解くための眼を暗黙知として磨いています。分析してみたら誰もが知っている当たり前の結果が出てきました、では意味がないので、通常とは異なる視点でデータを探し、分析することが必要なのです。
本書では、デジノグラフィの研究を通して暗黙知的に蓄積してきたビッグデータから、生活者を読み解く技法を誰もが活用できる形で言語化しました。具体的な分析事例は2章、3章で詳しく紹介していますが、重要なのはどんな種類のビッグデータだとしても活用できる汎用的な視点です。そこで4章では、基本的なビッグデータの観察技法として5つの技法を紹介します。さらに、分析結果を議論や意思決定に対して強いインパクトをもたらす「キラーデータ」とするための技法も5つ紹介します。
合計10の技法について、技法名と概要はここでもご紹介しておきましょう。
〈ビッグデータの観察技法〉
技法1│ボーダーライン分析法
前後で状況が一変する境目の値、閾値を見つける技法
技法2│ウェーブ分析法
波形の動き、重なりから周期性や構造の変化を見つける技法
技法3│ホットスポット分析法
生活者の動きが最も活発な中心点や新しい動きが起こる変化点を見つける技法
技法4│トライブ分析法
生活者の行動特性から新しい群や集団を見つける技法
技法5│3Gの法則
人々に興味を持たれやすい3つのGを分析に絡める技法
〈キラーデータの抽出技法〉
技法6│アジェンダ発想法
人々が注目している“話し合うべき課題”を起点とする技法
技法7│ロングデータ発想法
長期時系列データが示している継続的な変化を起点とする技法
技法8│イベント発想法
インパクトのある社会イベントを分析の起点とする技法
技法9│俗説発想法
世の中で定着している俗説や常識、固定観念を起点とする技法
技法10│違和感発想法
個々人の生活の中で生じた違和感や驚きを分析の起点とする技法
ビッグデータから生活者の実態を探る書籍はこれまでにもいくつか世に出ていますが、本書では読者の方々がご自身でビッグデータの大海に漕ぎ出せるよう、デジノグラフィという方法論としてまとめています。ビッグデータから生活者の隠れたインサイトを解き明かし、生活者への新たな価値提供を発想するきっかけにしていただければ幸いです。
2021年2月 執筆者を代表して
博報堂生活総合研究所 酒井崇匡
目次
1章 なぜ今、デジノグラフィなのか?
・ビッグデータはあなたの第三の眼
・民主化されるビッグデータ分析
・デジノグラフィ流、ビッグデータの歩き方
2章 隠れた本音と無意識をあばく
・建前抜きの、恋愛の本音をあばく
・夫婦喧嘩の本音をあばく
・生活者自身が知りえない、無意識の行動をあばく
・コロナ禍の検索データに現れた本音
・インスタ映えの本音をあばく
・Wikipediaに現れる、みんなの無意識
3章 膨大なデータ量がもたらす、驚きの解像度
・年代から年齢へ 新たな壁を可視化する
・波形を重ねることで見えてくるもの
・帯域から点へ、ピンポイント分析でわかること
・n=1を継続的に追う
・マイビッグデータの時代にできる新しいアンケート調査
・億単位の生声がもたらすもの
4章 今日からはじめるデジノグラフィ10の技法
・ビッグデータをフィールドワークする
・ビッグデータの観察技法
・キラーデータの抽出方法
著者紹介
博報堂生活総合研究所
1981年、「生活者発想」を標榜・実践する博報堂のフラッグシップ機関として設立。人を消費者だけにとどまらない多面的な存在:「生活者」として捉え、独自の視点と手法で研究している世界でも類を見ないシンクタンク。主な活動として、生活者の変化を長期にわたって追う時系列調査や生活者と暮らしの未来の予見・洞察などに加え、近年はデジタル空間上のビッグデータをエスノグラフィの視点で分析する『デジノグラフィ』の研究も推進中。その成果は書籍はもちろん発表イベントやWebサイトを通じて広く社会に発信している。
執筆者紹介
堀 宏史
博報堂 博報堂生活総合研究所 所長代理
1993年博報堂入社。得意先のデジタルマーケティングに関わる業務に従事。2019年より現職。カンヌクリエイティブフェスティバル、スパイクスアジア、アドフェスト、ロンドン国際広告祭、文化庁メディア芸術祭グランプリなど受賞歴多数。
酒井 崇匡
博報堂 博報堂生活総合研究所 上席研究員
2005年博報堂入社。マーケティングプラナーとして、教育、通信、外食、自動車、エンターテインメントなど諸分野でのブランディング、商品開発、コミュニケーションプラニングに従事。2012年より現職。著書に『自分のデータは自分で使う マイビッグデータの衝撃』(星海社新書)がある。
佐藤 るみこ
博報堂 博報堂生活総合研究所 上席研究員
2004年博報堂入社。飲料、食品、製薬、化粧品など様々な企業の商品開発、コミュニケーション戦略立案、ブランディング業務に従事。2019年より現職。