河合隼雄さんは自身の京都大学での最終講義で、『ブタヤマさんたらブタヤマさん』という絵本の内容を紹介し、人間の心を科学することの難しさを述べている。ブタヤマさんは目の前の蝶を取ることに夢中で、背後からオバケや巨大なヘビが近づいてきて名前を呼ばれても気が付かない。「なにかごよう」と言ってブタヤマさんが後ろを振り向いた時には誰もいないという話を引用しながら、人の心の問題を考えるときに本当に必要なデータを得ることがいかに難しいか、そして見えない気配を察知することがいかに重要であるかを述べている。ブタヤマさんの追いかけている蝶は過去の定番のデータで、マーケターが生活者の心を理解するために必要なデータは隠されたままだよと言われている気がしてならない。
20世紀はマス・マーケティングが大成功を収めた。少なくとも物質的な豊かさは格段に向上し、コモディティの供給力は需要を上回るようになった。このような中で、一人ひとりの生活者の心にこれまで以上に寄り添ってビジネスを展開する重要性が高まってきている。そして、情報技術の革新と普及が、技術的にはそれが可能だという期待を抱かせるが、現状では膨張し続ける情報空間からインサイトを引き出すのは簡単ではない。
本書は、日々蓄積されるビッグデータをエスノグラフィの視点で分析し生活者のインサイトを引き出すデジノグラフィという手法について、様々な事例と手法を示すことで教えてくれる。分析者が着目するデータと分析者の独自の「問い」を組み合わせれば、統計学の高度な知識がなくても興味深い分析が簡単にできるようになったことがよくわかる。このような挑戦はまだ始まったばかりであるが、デジノグラフィの考え方は間違いなくビジネス界に広まっていくはずである。本書は読むだけではなく、読者は実際に手を動かしてビッグデータからインサイトを引き出す習慣をつけてもらえたらと切に思う。
古川一郎(ふるかわ・いちろう)
博士(商学)。武蔵野大学教授。一橋大学名誉教授。日本マーケティング学会会長。主な著書に、『マーケティング・リサーチのわな』『マーケティング・サイエンス入門』『地域活性化のマーケティング』『デジタルライフ革命』『超顧客主義』など。最近は、生活者の「多形化」をキーワードに、社会と企業の関係の変化と新しい関係を見据えたマーケティングの未来に関心がある。