パンの形 ―“大澤秀一”という職人がつくるパンの形―

新しい挑戦

世界の頂上から景色を眺めた大澤さんは、今また新しい山を登り始めようとしている。

——新店舗ご開業まであと少しですが、どんな今どんなお気持ちでしょうか?

不安しかないです!

ワクワク感ゼロです!と大澤さんは笑いながら答える。製パン指導者として、経営者として、その他これまで経験したことのない部類の仕事が、大澤さんの前に今山積みになっている。今度は、自分対パンという1対1の関係性ではなく、パンを取り巻く人や環境すべてが、大澤さんの指揮を待っているのだ。大会時より今のほうが不安は大きいと、自身の心情を大澤さんは実直に語った。

——新店舗では100種類のパンを焼かれるそうですね。パンごとに生地も違えば工程も違います。パンの種類を減らして負担を減らす、ということも考えたりされませんか?

それはあえて100種類なんです。一緒に働く若手にとって「Comme´N 」を大変な場所、しんどい場所にしたくて。

この店に集まってきた若手は「こうなりたい」という強い志を持って集まってきます。自分自身の人生を振り返ると、絶対戻りたくないと思うような苦しい場所で大きな成長がありました。自分の限界を超えて、枠を突き破った時にこそ人は成長できます。

だからこそ「Comme´N 」はすごくしんどい、でもすごく成長できる、若い子らがそう感じれるような場所にしたい。でも自分自身がラクしてたらそんな場は作れない。だから大変だけど100種類焼くんです。

100種類のパンを焼きあげる「Comme N」の店内。

——新店舗で焼き上げるパンは、どんなパンでしょうか?

見た目に格好よくとかオシャレにとかじなくて、ただ必死になってパンを作っている、そういう感じのパンです。

大澤さんは東京出店決定当初、スタイリッシュなベーカリーのイメージを掲げていたが、一度ゼロベースにもどしてコンセプトを再考している。東京という場所で店を開き、自分は何をしたいのか。“世界一になったパン職人が作る斬新でハイセンスなパン”を作りたいんじゃない。ただ「パン」が作りたいだけ。そう思い直し、自分のパン作りに不必要だと思う要素をそぎ落としたコンセプトに変更した。

「『Comme´N Tokyo』という場所は、“店作り0%、パン作り100%”の空間。コンクリートの壁はスタイリッシュさではなくて“何もない場所”を表現しているんです。そこに群馬県産の木材を組み合わせて内装を作っています。木の泥臭い感じは自分たちを重ね合わせてて。店全体はワンルーム、ワンフロア。保健所の規定もあり全面的にそうはできないけれど、売り場も、キッチンも、梱包ルームも、納品業者の出入り口も見渡せて、店内のすべてが店を構成する大事な要素になってる。そういうイメージです」。

「Comme´N」の中では、すべての人がパンのある時間を共有し、その場所にいることを心から楽しんでいる、といったイメージが湧いてきた。そして、そんな人たちの調和が“おいしいパン”を作るための重要なエッセンスとなるのだろう。

——大澤さんがここまで来るためには、たくさんの苦境もあったと思います。ご自身の何を信じてここまで来れたのでしょうか?

自分に信じれるものがある…というより、信じているのは自分のまわりのほう。自分が必死に前に進もうとするとき、いつも必ず応援して支えてくれる人がいました。その人たちの声を信じていたからここまで来れたんだと思います。あと、お客さんに『おいしい』って言われるとやっぱりすごい嬉しくて。それだけなんですけどね。

そう言って大澤さんは笑う。

大澤さんの手。

パンが初めて作られたのは、紀元前6000年だと言われている。古代エジプトの人々は、砂漠の強い太陽光でパンを焼き、日々の食事や神の捧げものとしてパンを用いていた。

人が、粉と水と酵母をつなぎ合わせて作ったかたまりを、熱で焼いてパンにするという工程は、文明が高度に発達した現在にあっても、驚くほど古代の方法となんら変わっていない。もしくは変えることができない事柄なのかもしれない。人が人として生きるために、変えることができない事柄があるように。と、大澤さんの生き方をそのまま映し出すパンを見ていたら、そんなふうに思えた。

岡田幸子(おかだ・さちこ)

2020年、宣伝会議にて編集・ライター講座を受講後、現在は編集プロダクションにて勤務。

 

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