コロナ禍で注目されるブランドの“本質”論
2021年に入って昨年とは違った意味で新型コロナウイルスの影響がビジネス、さらにマーケティングに及んでいます。最近はコロナ禍による変化そのものに焦点を当てるより、コロナ禍以前から注目されていた長期的な変化(デジタルトランスフォーメーション、プライバシー問題)に立ち返って、改めて「本質的」とされる議論が多くなってきました。
そんななかで今年の2月に出版されたポール・フェルドウィック氏の新刊『Why Does the Pedlar Sing?(邦訳未出版)』を読みながら、自分も「ブランド」というものについて久しぶりに考えてみました。
いうまでもなく、このコロナ禍で叫ばれているもののひとつに、「ブランドの復権」があります。簡単に言えば、リアル店舗の営業が制限され、デジタルコマースが隆盛になるなかで、人々が頼るものはそれまでにすでに地位が確立されて信頼できるブランドに集約されていきます。逆にいえば、コロナ禍によって生き残れるブランドが選別されているようにも思えてきます。だからこそ、強いブランドとは何か?さらに、そのブランドの本質とは何か?という点が注目されているのでしょうし、いま危機に瀕している状況下の下位ブランドは、生き残る機会を探ろうと必死になっています。
ブランドの本質は何か?という議論は、コラムで紹介するにはとてもスペースが足りません。あえて誤解を恐れずにそれを指摘するならば、遺伝子との比喩でブランドの「DNA」とか物理学の比喩で「コア価値」などと呼ばれるものと言えると考えます。そしてそれらをシンプルに明確に見出し、伝えることに、ブランディングといわれる活動であり、それをなるべくブランドの顧客に伝えるべく、マーケターはブランドの「一貫性」を保つことが大事だといわれています。
しかしながら、本当にこの見解は正しいでしょうか。今回、フェルドウィック氏の著書は本人も(自分も含めて)上記の考えを信奉し人に伝えながらも、実際にブランドを運営し育てることは、そのような本質とは別のことが起こっていると論じています。その例を、少し昔の例ではありますが、サッカー選手で有名なデビッド・ベッカムとその妻のヴィクトリア・“ポッシュ”・アダムスのエピソードを例に説明しましょう。