ベッカムの奇抜なファッションとヴィクトリアによる「ブランディング」
サッカー選手として有名なベッカムが、元スパイス・ガールズの「ポッシュ・スパイス」ことヴィクトリア・アダムスと結婚したことは有名ですが、このベッカム夫妻は有名人同士のカップルだったこと以上に、彼らの発言や行動はいわゆる芸能ニュースとして大きくメディアで取り上げられることになりました。
なかでもベッカムのファッションはよく取り上げられ、時にそのユニークさで「奇抜な」と評されることもおありました。そしてその多くは妻であるポッシュ・ヴィクトリアの影響と囁かれていました。
有名なエピソードは、マレーシアの民族衣装である「サロン」というスカートを着てレストランに出かけたところをパパラッチされた時の話です。このエピソードはベッカム自身がイングランド代表で出場していた1998年のフランスのワールドカップ開催中だったこともあり、衝撃と共に受け止められ「なんて格好しているの?」と批判の的にさらされました。
フェルドウィックはこのエピソードについての省察をインターブランドのコンサルタントでもあったアンディ・ミリガンの著書『Brand It Like Beckham: The Story of How Brand Beckham Was Built(2004年刊 未邦訳)』から紹介しています。
ミリガンによれば、当時まだ英国代表のサッカー選手だった存在を、ベッカム自身が意識的に変えていこうとしていた結果であるとのこと。妻であるヴィクトリアのサポートによって、ファッションスタイリングのセンスがあるという自身のブランディングを通じて、サッカー選手のイメージを変えようとしていたのだというのです。つまり、ベッカムは意識的にヴィクトリアと共同で、ベッカムのブランド価値のひとつとしてルックスとスタイリングを強化していたというブランドマネジメントの結果だったと言っているわけです。
しかしながら、面白いことにフェルドウィック氏は、同じエピソードを妻であるヴィクトリアの自伝『ヴィクトリア・ベッカム ~翼をひろげて飛ぶために~(原著は2001年刊)』から、このエピソードに別の側面から光を当てています。それは、ミリガンが想像していたこととは大きく違っていました。
ヴィクトリアによれば、サロンを着ていくことはまったくの「デヴィッドのアイデア」で、たまたま南仏リゾートで有名なリヴィエラでのディナーだったことから、あとから批判されたことは全くの予想外だったようです。「南国のバリでもこんな格好は普通にしている」ので彼らにとって不自然なことではなかったと弁明しています。ミリガンのような意図はまったくなかったといっていいでしょう。
ベッカムのような有名人のエピソードで、事実と周囲の解釈の違いは、何か結果的に問題をもたらすでしょうか?おそらく何もないでしょう。いずれにしろ、彼らのような芸能人のゴシップニュース全般に言えることですが、もともと本人たちが意図していたことと関係なく、結果的に勝手に世間から思われたり解釈されたりすることは日常茶飯事だからです。このような現象についてフェルドウィック氏はこう言っています。
ブランドもセレブリティたちも、自らに起こることに対して時に非常に高いレベルのコントロールをしようとすることがよくある。そのような時、たいてい「ブランド的にあり、なし」とか、「イメージに合わない」とか「コア価値にそぐわない」とか「ネガティブな意味に取られかねない」などと心配したりする。
(中略)しかしブランドであれセレブリティであれ、有名性(Fame)というのは、すべての役のそれぞれ個人の選択やジェスチャーがこれまでやってきたことの積み重ねなのである。それらのいくつかは確かにコーディネートされ計画されたものだが、多くの場合はそうではなく、またそのような計画がもともと出来ないものである。(『Why Does the Pedlar Sing?』より筆者翻訳)
芸能人が偶然やったことを叩かれるゴシップネタは、メディアの格好の餌食となりますが、ブランドもその意味では実は変わりありません。ビジネスの領域におけるブランディングやブランド論と、ここで挙げたような芸能人のゴシップに関係性を見出せないかもしれませんが、ブランドのコア価値といわれるようなものが完全にコントロールできないという点で、私たちはセレブリティのケースから学ぶことがあります。むしろブランドのほうが芸能人よりも「個人の選択やジェスチャー」がかなりの広範囲で影響を及ぼし、多様な解釈をされることは間違いなく、巷で言われるような「ブランド本質論」がどれだけ現実の世界で適用されるかはかなり怪しいものがあります。