18時間目:沖縄戦で亡くなった方と同じ数、23万6095個の石に番号を振って、積み上げる。

イラスト:萩原ゆか

「石の声」。

沖縄出身の、もうかれこれ15年以上一緒に教育プロジェクトをやっている仲間、舘林恵が教えてくれた伝説の授業の名前である。曰く、

「沖縄戦で亡くなったとされる236,095人と同じ数の石に、1~236,095まで番号をひとつずつ書いて積み上げていく。ただそれだけ。

何の意味があるんだろうって、最初は思ってたんです。それが書き続けるうちに、ただの石ころが、骨に、命に、途絶えた未来の数に見えてきて。気付くと泣きながら書いてましたね。数日間かけて、やっとみんなで書き終えた時、小さな石は大きな山になってて。今まで公式を覚えるように暗記していた『23万人以上の戦没者』の途方もない数に、ただただ圧倒されてました。『以上』とか『約』で大まかになんてくくれない命の数だったんだって、初めて理解できた気がしたんです」

その伝説のワークショップをされた、伝説の金城満先生をZoomで紹介してもらった。

こちらが「石の声」の伝説の美術教師、金城先生。現在、琉球大学教職大学院教授。

倉成「伝説の授業教えて、って言ったら、すぐ石の声!って言ったよね」

舘林「問いを持ち続けざるを得ない強烈な体験。あの場所とか暑さも含めて、今でも体と心で覚えてるワークショップっていうのは後にも先にもない」

「先生は、なぜ石の声を始められたんですか?」

金城「実際には、これを行った佐喜眞美術館っていう場所の記憶というかね、必然性というか。

全然違う用事で行ったら、この空間で何かしたいなと思うようになって、館長と会った時にパッと通じたんですよ。『頭にきますよね、最近』っていう話からね」

「その最近って、何があった時ですか?」

「その時が1996年で、前年の1995年が宜野湾の県民集会(米兵暴行事件糾弾県民総決起大会)ですよね。大田(昌秀)知事がキレまくって、米軍基地用地の強制使用手続きの代理署名を拒否した頃。

それで、頭にきますねって話をして、この状況にウチナンチュ(沖縄の人)は怒ってるということを、表現すべきじゃないかと言ったら、やりましょう!と、トントンと話が進んで。

また、この美術館は、普天間基地のフェンスをバックさせて、そこに作られたという経緯もあるんです。佐喜眞さんは美術館の場所を探してたけど全部ダメで、そういえば自分の土地が基地の中にあって、墓もあったと。日本政府への交渉は大変だったけど、米軍のトップと直接交渉すると『文化施設ならいいじゃない』、と、なんとOKが出て。そして、土地を返還するんですよ。こんなこと日本の歴史の中で、個人が交渉して、あり得ますか?

そういうことからも、全ての巡り合わせを、この場所に感じた。

今の沖縄の怒りをなんらかの形で表現する必要が絶対にある。例えば、石をフェンスにねじ込んでいきましょう。普天間基地の周りのフェンスに。石ねじ込みフェンス。と言ったら、彼が乗ってきたんですね。

なので、最初は平和教育じゃないんですよ。やがて総合学習が始まるから、というのは表の理由。学校を説得するためのね。そんな事情はあんまり話してないか」

「聞いてないです。初めて聞いた」

「でも、ねじ込むっていうのは暴力的だし、フェンスだと法的にも問題だろう。というところで、歴史をやろうと思ったのね。

死者の数はどんだけかというと、23万人強なんですね、平和の礎に書いてある、当時のね。その客観的な数字をどう表現するか?ナンバリングだと思ったんですね。

ナンバリングは私の中では写経なんですよ。何か静かな時間を持つ。淡々とある行為を続けていく。そうすると自分と向き合うことになる。と同時に、死者と向き合ってるわけですよね。

学校でやることは、歴史のデータですよね。亡くなった人と向き合うことはやっていない。歴史はデータじゃない。存在があったという過去なんですから。存在の証と言っても、死者と会うわけにはいかないので、『ナンバリングだ』とつながるわけですね」

「なるほど」

「23万か、と。できるだろうな、と直感で思ったんですね。何名か集めて、ストップウォッチを持ってテストしてみたら、できるなと。

一番難しかったのは、学校への許可とか、管理職、報道機関にどう説明するか?1人の思いつきと思われると後々マイナスになると思って、『なんとか実行委員会』みたいな形で企画書にして。高校と美術館のコラボにして。学校からは、『わかったけれど、正規の授業には当てはまらない』と言われ、開催日を土日にしたり。『交通機関どうするんだ?』と聞かれて、ボランティア募ります、と言ったら、協力者がわっと集まって、自分の車乗せていいとか、バスも集まって、とかね。

だから最初は全く理解もされてないし、ものすごく計画的に練ってやったわけじゃなくて、瞬間的な動き。一気に企画を作って、一気に動いて。

ナンバリングされていく石。DVD「石の声 – 表現行為が導き出すもの」より。

だから準備不足で、初日でくじけるわけですよ。初日でどんだけの数だったかな?全然達成しなかった。人間の頭の小ささがわかりました。要するに傲慢だということなんですね。死者と向き合うなんて、そんな思いつきで、やってはいけない。これは大変なことになったということなんですよ。けしかけておいて、だんだん追い詰められてね。2日目も到底見通しが立たない。

問題はその時の気持ちですよね。逃げ方も自分で計算してるわけですね。アートで捉えられない数だった。そういう表現だと。落とし所として。そんな保険もかけてるわけですよ」

「えー、そうだったんだ!」

「ただ、周りを見ていると、物凄い勢いがあるわけね。気持ちがね。動いてる。何かが動き出している。

で、スタッフを集合させるわけですよ。ちょっと集まってくれ、相談なんだけどって。みんな答えを持っていないんですけどね。なんせ答えがあるものをやってないからね。

今こう言う状況で、到底計画した2日間でできない。さてなんだけど、と。そうすると、シーンってしますよね。この先生は、やるって言うのか?延長だっていいうのか?これをそのまま置いておこうと言うのか?人って、ワーって想像していくんですね。

そして、『やるか?』というと、みんな『やる』と言ってくれたわけです。

やるとしたら翌週だと決めてました。計算したわけじゃないんだけど、最終日が慰霊の日(6月23日)になるわけですよ。これ、全然計算してない。

そこからですよ、全国紙で取り上げられたり、報道が来たり、この1週間の忙しさと言ったらね。どんどん学校に電話かかってくるし、インタビューしたいと言われる。それを丁寧にやらないといけないんですよね。見たいように見てくれだと、ねじ曲げられることを知っているので。準備期間を設定して、説明もして、立て直して。

最終的には、延べ4日間やりました。前の週の土日、翌週の土曜日。そして日曜日が慰霊の日。

『唇』が出現したのが、3日目の土曜日のタイミングです。

3日目の夕方、石の山が水溜りに映って見えたという「唇」。

あれはもう、暑さもあって夕方までに喋れないくらい疲れるわけです。夕方スーッと風が拭いて日が暮れて。みんなが車で帰っていく時に、ヘッドライトがパッと当たった時に見えたのね。待て待て車を戻せー!って。石が喋っている。その瞬間の写真がこれなんですよね。

ものがしゃべり始めると言う感じ。物事っていうのが、意味を持ち始めて、見える形になって、視覚化された時に、一つのアイコンみたいになってね。今までやってきたこと、それから時代状況が、唇というアイコンになったわけですよ。出現した。ほんとに。そこに。

そして翌日、最終日も朝からみなさん来てくれて、またこれが、全て巡り合わせ方式なのね。沖縄の慰霊の日は正午に『ウー』ってサイレンが鳴って黙祷するんですけど、ちょうどその辺あたりで、全て書き終えた。

セミが鳴き始めて。そして時報とともに、線香をみんなで回して、黙祷した」

最後に書き込まれた、23万6095個目の石。

「ということは、石の声は、1回だけなんですね」

「これに関しては1回だけですが、『被害』についてばかりをやるのは不十分だと思ったもんだから、『加害』をテーマに翌々年やったのが『鉄の記憶』。

沖縄戦では23万トンの鉄が使われたと言うデータがあって、それに対して5%かな?不発弾が地中に残っているわけですが、人間1人を1トンの鉄で殺したと言う計算なんですね。

具体的には、木片に釘を打ち込んで、ハンマーで加害行為をやっていく。最初はリズムが面白いからどんどん打てるんですね。ただ、これって加害行為だ、とわかるとだんだん打てなくなっていく。ハンマーを持てなくなります。そして最後に葬式をやりました。20世紀の暴力を葬ろうというコンセプトで、火葬して釘と灰にして、石の声にもう1つ違う視点を入れた。

この2つが相まって、1つの平和教育と言われてるわけなんだけど、それが第一ではない。平和教育をやろうと考えると、子供たちはひくわけですよ。教育と言わず行為、表現行為をやって、自分自身が変わる結果、教育となっていくだろうと。

この4年間はこういうことばっかりやってました。96年〜2000年までね」

「それ、たまたま舘林はその時に当たったんだね」

「石の声に参加したのは高校の時。で、金城先生は中学の時の美術の先生です。

ほんとに変な先生で(笑)教科書1回も開いた記憶がない。1学期間ずっと『北の国から』のドラマを観るって授業やりましたよね?結構荒れた学校で、授業のボイコットとかあったけど、金城先生の授業は荒れなかった。リーゼントで眉毛のない男子も、真剣に『北の国から』を観てましたね。

テスト問題もすごい変で、気持ち悪い音を校内放送で流して、絵にしなさいとかありましたよね」

「作文書かせるのもあって。『家族の肖像』というね」

「いい授業だった。学期の初めに、家族の写真を1枚持ってきなさいって言われて、それを1学期間かけて描くんですよ。絵に。

描き終わって、中3の最後の学期末のテストの問題が『この写真にまつわる思い出を作文にしなさい』だったんです。のちのち、みんなの作文は冊子になって配られて。読んで衝撃を受けたのを覚えてます。家族の事情や思いが赤裸々に書かれてて。真面目な子もそうじゃない子も、同い年の子たちそれぞれ抱えてたんだって知って、泣けました」

「石の声よりこれが前ですけど、全部繋がってるわけですよ。人間の成長とか思春期とか、無表情な生徒たちが本当はどんなこと考えてるかとか。最終的には10ページくらいの試験問題を出してね。中学生に10ページ読ますって言ったら大変ですよ。いろんなだまくらかしを、しながらね。

『ジャーン!大変長らくお待たせしました。今回義務教育最後の授業が、家族。その理由を解答用紙へ10万字以内で述べよ』とか、書いてるわけね。

『実は解答用紙はありません。それどころか出題者のぼく自身回答白状してしまうと、解答を持っていません。この課題を手がけて、約6年になりますが今だに、なぜ最後に家族の肖像を課すのかハッキリ答えられません。しかし、感じていることは、美術は、単に「絵がウマク描ければいい・・・」とか、「形がうまく取れればいい・・・」とか、ではないということです。(中略)美術の原点は、「感じる心」ではないでしょうか。(中略)この「感じる心」は今後も自分自身で育てていかなければなりません。(中略)あせらず自分自身の心のなかに解答用紙をみつけていってください』

という感じですね。石の声の原点はこれなんですよ。家族とか人間とかどう生きてくかとか。家族の肖像は、あれ泣くよな?」

「思い出した。ほんと泣ける」

「で、その授業の後に、恵が行く高校にたまたま転勤するんだな」

「中学校の卒業式で、先生と別れるのが悲しくて悲しくて泣いてたら、私が進学した高校の入学式で先生が胸に花つけて、おめでとうって言って、ニヤニヤして立ってましたよね(笑)

先生は芸術科で、私は違う学科で、直接授業はないけど、たまにお喋りに行ってたんです。そこで、石の声やるよ、って聞いて、友達誘って参加しました」

「そっか、授業じゃなかったんだ!先生は、こういうインパクトあってみんなが感じる授業を、どうやって思いついてるんですか?」

「思いつくんじゃなくて、あっちからくる。頭でじゃなくて、繋がる感じ。

こういう授業やりたいから、検索して調べて、これとこれ引っ付けようじゃなくて。こういうのって変だよな、って。

どこから来るかというと、すぐ反応しないこと。なんかやらなければという反応じゃなくて、一旦あっちから来るのを待ってる感じなんですよね。相手と、現場で、話をしながら、呼吸を図りながら。それで結局しつこく長い授業になるんですよ」

「なんで、金城さんのところには、あっちから来るんでしょうか?」

「面白くないものは見ないからでしょうね。映画がつまんなかったら5分で止める。タイトルの出方、とか、ストーリー以前の作り方の丁寧さで、あ、これは見ない、と。そこに忍耐はかけない。そうすると、違う面白い映画に出会えたりしますよね。音楽も、本も同じ。

情報の目利きになりたいですよね。情報の洪水の時代だから」

「先生が見てる面白いものと、される授業は、同じレベルで面白いわけですよね。それだけを生徒に提供する、と。

先生の教育の背後には、どんなお考えがあるんですか?」

「忘れるものは忘れていいってことですよね。

学校教育の今までの形は、テストで測る、つまり覚えるが中心であったんだけど、それは否定されるものではない。考えるためには、覚えたもの、つまりデータがないとできないので、絶対必要。

でも、データをやってる間に自分もデータ化されるような感じがする。自分という存在は、決してデータではないんですよね。

人間は、出入りする入れ物で、中学生には中学生という肉体があって、彼らの中を通り抜けてる粒子みたいなのがあるはずなんですよ、現代という匂いだったり数値化できない情報が通り抜けてる。その証拠にニュースを見たときにそのニュースが通り抜ける瞬間がある。矛盾だったり嘘だったり、何を隠してるかが見えるわけですよね。

学校教育の中で、感性を磨きなさいとは言われるけど、どこでどういう風に磨くか?という方法を聞いたことない。

メモリーを巨大化させていく方向ともう1つの、透過していく情報をキャッチする方向、弁を開いたり閉じたりする操作に気付かせる、刺激する、という教育は、もうちょっとやっていい気がします」

以上。

とてつもない伝説の授業を、沖縄からアーカイブさせていただきました。

倉成英俊 (Creative Project Base 代表取締役/ アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所所長)
倉成英俊 (Creative Project Base 代表取締役/ アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所所長)

2000年電通入社、クリエーティブ局配属後、多数の広告を制作。2005年に電通のCSR活動「広告小学校」設立に関わった頃から教育に携わり、数々の学校で講師を務めながら好奇心と発想力を育む「変な宿題」を構想する。2014年、電通社員の“B面”を生かしたオルタナティブアプローチを行う社内組織「電通Bチーム」を設立。2015年に教育事業として「アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所」を10人の社員と開始。以後、独自プログラムで100以上の授業や企業研修を実施。2020年「変な宿題」がグッドデザイン賞、肥前の藩校を復活させた「弘道館2」がキッズデザイン賞を受賞。

倉成英俊 (Creative Project Base 代表取締役/ アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所所長)

2000年電通入社、クリエーティブ局配属後、多数の広告を制作。2005年に電通のCSR活動「広告小学校」設立に関わった頃から教育に携わり、数々の学校で講師を務めながら好奇心と発想力を育む「変な宿題」を構想する。2014年、電通社員の“B面”を生かしたオルタナティブアプローチを行う社内組織「電通Bチーム」を設立。2015年に教育事業として「アクティブラーニングこんなのどうだろう研究所」を10人の社員と開始。以後、独自プログラムで100以上の授業や企業研修を実施。2020年「変な宿題」がグッドデザイン賞、肥前の藩校を復活させた「弘道館2」がキッズデザイン賞を受賞。

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