「文系の大学は、数学に苦手意識を持った学生が多く、私の担当する授業『人工知能概論』では、あえて数式を使わずに教えています」。こう話すのは、大阪経済大学情報社会学部でAIリテラシー教育の設計をしている中村健二教授。
機械学習や人工知能に関する技術の発展とともに、AIが発達すると仕事がなくなる、多くの人がAIによって仕事が奪われる時代が来るなど、雇用に関する影響についての議論が取りざたされることが多いが、「AIは道具なんです。私たちの身の回りにはすでにたくさんのAIがあって、生活を助けてくれています。その道具について知り、どのように使って今ある社会課題を解決していくのか学生たちに考えさせることが、結果的にAIリテラシーの養成につながります」と中村教授は話す。
政府は2019年6月に「AI戦略 2019」を発表し、初等、中等、高等教育、社会人すべての世代でAI人材を育成していく方向性を示した。すべての大学、高専の年間卒業生約50万人が、初級レベルの数理、データサイエンス、AIを習得することを目標のひとつに掲げている。また、デジタル社会の「読み・書き・そろばん」となるこれらの知識・技能、新たな社会の在り方や製品・サービスをデザインするために必要な基礎力など、持続可能な社会の創り手として必要な力を全ての国民が育み、社会のあらゆる分野で人材が活躍することを目指し、2025年の実現を念頭に今後の教育について目標を設定している。
この政府方針に基づき、東京大学や京都大学など6大学からなる「数理・データサイエンス教育強化拠点コンソーシアム」はカリキュラムのモデル案を公開、各大学でも講義を開始している。
リテラシーからエキスパートの人材育成を網羅するAI教育改革だが、この計画には巨大な壁が立ちはだかる。日本の教育システムに特有の「理系と文系の壁」だ。日本の高校の多くは高校2年から理系コースと文系コースに分かれ、大学入試を意識した教科を選択する。そして日本の大学生の半数を占める「私立大学の文系学部」の入試は、難関校など一部を除き、数学を必須にしていないケースが多く、英語、国語、地歴公民だけでも入学できるため、高校で数学を学ばずに大学に進学してくるのだ。文部科学省の学校基本調査によると2019年度の日本の私大文系学生は約147万人で、大学生全体の56%を占める。この規模の学生に向けてどのようなAI教育を行うのかが、AI戦略2019の成功のカギを握っていると言える。
そんな中、数学を苦手とする学生を対象にAIリテラシー教育に取り組んできたのが前述の中村健二教授だ。所属する大阪経済大学は経済学部、経営学部、情報社会学部、人間科学部を持つ私立の社会科学系単科大学で、学生全員が文系である。「AIリテラシー教育においては、世の中の最新技術に触れさせることを重視しています。2年生で調べた時には最新技術でも、彼らが卒業する頃には、世の中に普及して当たり前の技術になっていることが多いです」。AIを含むテクノロジーが短期間で飛躍的に発展している現在において、学生がゼミナールに入った頃には最新だった技術が、就職活動をする頃には企業担当者に話せるようなよく知られる技術やサービスになっていたり、社会の第一線に出て働くときに使われるようになっているというのだ。「最新技術に触れることは、技術そのものを知るだけでなく、技術開発から社会実装までのスピード感を認識することにもなります」。
中村教授が実践するAIリテラシー教育のプロセスを聞いてみると、「はじめのステップとして、最新のICTを個人で調べ、発表させます。だいたい1人当たり5件ずつ調べてきます。自分やゼミ生が一度発表した技術は、次回以降、発表できないルールにしているので、回を重ねるごとに見つけることが難しくなる。発表も5回目くらいになると、絞っても何も出てこなくなりますね。最新の技術は日本国内だけだとすぐに頭打ちになるので、海外の技術も調べるように指導します。英語が苦手な学生が多いので、翻訳ソフトを使って何とか調べてきていますよ。ゼミ生は20人ほどいますので、トータルで500件くらいの最新ICTが発表される計算になります」。2020年7月の経済産業省の報告によると、AI関連発明の国内特許出願件数は、第三次AIブームの影響で2014年以降急増しており、2018年は約4700件で前年比約54%増加している。このことからも最新技術が加速度的に生み出されていることがわかる。
「次のステップは、個人発表で出てきた500件の最新技術が、世の中のどんな場面で使われているのかをグループで調べて発表させます。そして次の段階として、その使われた技術がなぜ売れているのかを考えさせるのです」。成功事例を研究することで、どのような社会(または企業)課題があり、最新技術がどのように使われ、普及するのかの勘所を養うことが狙いだ。
「これらのステップを経て、ゼミ内でチームに分かれてICTを活用したビジネスプランを考え、アウトプットするために学内対抗プレゼン大会や各種ビジネスプランコンテストに挑戦していきます」
実際にプログラミング等の技術的な指導は取り入れているのか。「厳密にはアプリ開発まではやっていませんが、提案するビジネスプランに関係する技術のコアについて、すべての学生が話せるよう、アプリの画面を作って操作感を出すところまでを指導しています。これによって提案の実現可能性の高さを訴求することができるようになるのです。しかし、提案するプランにおいて、技術面が実現する際のハードルになっている場合には、その部分にフォーカスしたAIを作ってみることはあります。実際、ナンバープレートを識別するAIを使って動画に映る車のナンバーを調べるアプリを学生が作りました」。プログラミング等の指導をするかどうかは、ビジネスプランの内容によって判断している。
一方で、新しい技術を使っていないプランであっても、内容を変更させることはない。「AI技術が使われていないビジネスプランを提案するチームも出てくることがあります。これは、プランを具体化していく過程で、その技術を使わなくても実現できるという結論になってのことです」。社会課題がAI技術なしに解決できるケースもあると知ること。その経験も重要なのだという。
「AIよりも範囲が広くなりますが、私が顧問をしている企業からもDX化についての相談をよく受けます。その際には、DX=IT化ではないですよとお話しています。DXは既存のシステムやサービスをIT化するという意味ではなく、ITというテクノロジーを使ってビジネスモデルを作り替えることを意味します。そのためにITを使うのか、使わないのか、使うのであればどのようなテクノロジーを使うのか、そしてAIはテクノロジーのうちの1つでしかありません。AIリテラシー教育では、AI知識を得ることだけでなく、現状に囚われずに、前提条件そのものも見直し、課題を設定する力の養成も重要なポイントだと考えています」。
こうした指導の結果、中村ゼミの各グループは学内対抗ゼミでは毎年上位に入賞し、日経BPマーケティング社が主催する西日本インカレ(合同研究会)にも出場。一般財団法人学生サポートセンターが主催する学生ビジネスプランコンテストでは、難聴者の暮らしをサポートする手話翻訳アプリでアイデア賞を、北おおさか信用金庫と日刊工業新聞が主催するキャンパスベンチャーグランプリで、QRコードを配置し店内通路を歩いて360度カメラで撮影するだけで自動的に地図が完成する商品検索案内システムを提案し、近畿経済産業局長賞を受賞するなど、学外でも評価を受けている。
また中村ゼミを含めた、AI教育を取り入れたゼミナールでは、システムエンジニアとして就職する学生も輩出しており、卒業後の進路にも一定の成果が表れている。
2023年度からは情報社会学部で、中村教授らが中心となって、総合情報コースを立ち上げる。「コース名にAIという名称を入れるかどうか検討しましたが、社会の課題を情報という側面で捉え解決するには、AIは部分的すぎると判断して、総合情報コースという名称に落ち着きました」。
また同じタイミングで、文系の学生であってもデータサイエンスに関わる知識等が必要とされる社会に対応するため、経済学部と情報社会学部でデータサイエンスプログラムを開講する。このプログラムは、前述の数理・データサイエンス強化拠点コンソーシアムのカリキュラムモデルを参考に構成している。一方、情報社会学部の総合情報コースは、数学や数式を表立って使わないのが特徴で、数学に苦手意識を持つ学生であってもスムーズに受講できるよう配慮している。
数学の知識が必要と言われるAI教育において、数学を使わないとはどういうことなのだろうか。「数学がいらないと考えているわけではありません。むしろ授業の中で数学は使っています。けれど私の担当している『人工知能概論』では、あえて数式を使わずに図に表して教えています。こんなデータを入れたら、こういうアウトプットが出てくるということを学生に学習させるのですが、これは、イメージをつかむことを重視しているためです。数式で説明する方がはるかに簡単かつ厳密に理解できるのですが、数学に苦手意識をもつ学生は、数式が出たとたんにアレルギー反応を示し、理解しようとしない傾向にあります。」科目名ひとつとっても、数理や数学という単語が出てくるだけで敬遠されるため、工夫が必要となる。文系の壁というよりも、数学に対する苦手意識を思い起させない工夫がAIリテラシー教育の肝なのかも知れない。「アルゴリズムを作る人を育成するには、数学の理解が必須ですが、使う人の育成では必ずしもそうではありません。例えば、2点間の距離を出すということについて、距離を測るには数式がいるけれど、距離を出すというイメージがあればプログラミングはできます。そして距離を測ってみたいと思う学生がいれば、数学を学べばいいと考えていますし、本学では学生の教育に熱心な数学の専門家もいるので、その要望に対応することができます」。
総合情報コースのカリキュラムの特徴はどんなところにあるのか。「『学ぶより慣れよう』が基本スタンスです。数学を意識させずにフローチャートを使いながら、プログラミング思考やデザイン思考を養っていきます。また実際にプログラミングに取り組み、AIに慣れるようにします。AIは道具であり、中身を詳しく知らなくても使えるんだと学生が認識すること。そして、今ある社会課題を感じ取り、解像度を上げて、AIで解決できるものは、どう解決するかを提示できるようになるというのが目指すところです」。
こうして育成した学生は、社会で活躍できるのだろうか。少子高齢化による人口減少が進む日本において、ITの活用は社会課題の解決や、さまざまな産業の生産性向上の鍵を握っており、特にAIの有効活用は必要不可欠となってきている。独立行政法人情報処理推進機構はAI人材を「AI研究者」、「AI開発者」、「AI事業企画」の3タイプに分類し、AIの研究や開発のみならず、AIを活用した製品・サービスの企画・販売も含めた、広い範囲で定義している。
これまでのAI人材教育はAIを作ることを想定して設計され、その環境は整ってきた一方で、AIを使うための教育や人材をフォローする環境は十分ではない。すでに普及している構築済みのAIサービスを利用すれば、容易にAIを作ったり活用したりすることが可能で、作ることのハードルは下がっている。むしろAIを作るための専門性と並んで、AIを使うための判断能力が重視される時代がきている。文系人材がAI分野で力を発揮し、ビジネスを動かしていくケースも増えてくるだろう。
高校では、2022年度からプログラミングが全員必修となり、選択科目でデータサイエンスの基礎も学べるようになる。さらに2024年度からは情報科が大学入試共通テストの科目に加わる見通しだ。今後、文系理系問わず、プログラミングやデータサイエンスの位置づけが高まっていくだろう。そうなれば、社会課題を敏感に感じ取る感性、新しいことにチャレンジする行動力、周りを巻き込むコミュニケーション能力に優位性を持った人材が活躍する社会が到来する。
ここ数年は、高等教育の文理の壁が融合する過渡期にあるのかもしれない。大学業界としてベースになる教育を担保しながら、各大学が特徴を打ち出し、学生の能力や目指す人材のタイプに合ったAI教育を展開していくことになるだろう。数学が苦手な私大文系学生もAIリテラシーを身に着けて社会で活躍する日も遠くない。
中村 健二氏
大阪経済大学情報社会学部教授。博士(情報学)
2019年には点群データのブラウザ「3D Point Studio」の開発、2020年には「建設機械搭載型レーザスキャナによる土工・舗装工事のリアルタイム出来形管理の実現」において、2年連続で国土交通省の「i-Construction大賞」優秀賞を受賞
高濱悠紀
1976年生まれ。関西学院大学経済学部卒。2019年4月から大学で広報を担当。広報戦略策定やブランディングを手掛けつつ、オウンドメディア全般を企画・運営している。中学生と小学生を持つ母でもあり、データサイエンス教育やGIGAスクール構想に注目している。