「ブラジル 茹で汁」 “違和感”のある言葉が笑いを生む
当たり前のことかもしれませんが、日本人が日本語の意味を覚えて何の違和感もなく日常的に使っている今の状況だからこそ、あえて“違和感”をつくり出すことは笑いにつながるように思います。そして、違和感や、徹底した意味のなさに僕は惹かれます。
韻を踏むという行為自体が、ただ楽しいだけで意味がないという部分も好きなのですが、僕の好きな自分のネタに「ブラジル 茹で汁」というものがあります。もちろん「ブラジル」も「茹で汁」も、わけが分からぬまま僕に連れてこられて隣同士に並べられただけです。並べられているから「ブラジル茹で汁」と、続けて読まれたりもするけれど、ブラジルは茹で汁ではないし、茹で汁もブラジルではありません。
でも、なまじっか似ている言葉なせいか、ぎこちなく手をつないでいるように思えます。お互い全く違うものだけれど、よく見たら少しだけ似ているところもある。そしてなぜだか「ブラジル」と「茹で汁」には仲良くなって欲しいと、うっすら感じる。
それは恐らく、僕だけではなく、この2つの言葉を眺めているすべての人々の内なる願いではないでしょうか。意味のないように見えるものをじっくりと目をそらさずに眺めることで、僕は笑顔になれるのです。
早急に「言葉」の意味を求めることは、拒絶の前触れかも知れない
しかし、世の中には早急に意味を求める人の何と多いこと。僕が思う、早急に意味を求めてしまう人の特徴は、「意味が分からないから」という理由で物事を拒絶してしまうことが多いことです。
たしかに、理解できないものを恐れるのは人間の逃れられない習性かもしれません。ただ、その習性に振り回されて頭を使わず、目の前に現れた意味を提示してこない“物体X”から乱暴に目をそらす人は、もしかして自分がこの地球に産まれ生きている意味を分かっているとでもいうのでしょうか。
意味が分からないものに意味を付与しようと頑張ってみたり、それが難しいなら、意味も分からぬままそれを眺めながら佇むのが、意味も分からずこの地球に産まれた僕たち人間の美しい姿勢ではないでしょうか。