読んでない本を堂々と語る人
編集者の中には、読んでない本について堂々と語る人がいる。私もそうだ。
ベストセラー書籍の『ライフシフト』。最初に白状しよう。私はこの本を読んでいない。一応、手には取って、目次を見たあと、高速でページをめくった。なので、何が書いてあるかは大体知っている。でも、決して速読の技を持っているわけではなく、いたるところで、いろんな人が論評しているから内容を知っているに過ぎない。ベストセラーとはそういうものである。
とにかく示唆に富んだ良い本であることは間違いないので、あやかってこのコラムのタイトルに使わせてもらうことにした。
55歳の秋、私は30年以上勤めた出版社、ダイヤモンド社を辞める決意をした。1989年4月に新卒入社して以来、そのほぼすべての時間を「週刊ダイヤモンド」と「ダイヤモンド・オンライン」と共に過ごし、両メディアでは編集長も務めた。このまま定年まで勤め上げるのかな…と周りも思っていたに違いない。
ところが、まったく畑違いの業界、それもベンチャー企業に身を投じることにした。意識高い系の人たちがブログに書く「退職エントリ」っぽい言い回しをするとすれば「創業108年の老舗出版社を『卒業』、10年目のスタートアップに『ジョイン』した」のである。
転身先はTBMという、新素材メーカーだ。 石灰石を主原料とし、紙とプラスチックの代替となる「LIMEX」という素材を開発・製造・販売するほか、資源循環ビジネスを手掛けている。紙の代替としては森林資源と水資源を使わないこと、プラスチック代替としては石油由来プラの使用量を大幅に抑えられることから、気候変動対策に資する素材として注目され、日本では数少ないユニコーン企業(評価額が10億ドルを超える、設立10年以内の未上場のベンチャー企業)と目されている。
雑誌とオンラインメディアしか経験のない私が、しかも五十路も半ばで、なぜそんな畑違いにライフシフトしたのか。文化も若さも成長スピードも違う組織でやっていけるのか。現場から生の話をお届けしたい。
若い成長産業に身を埋めてみたい
50歳を迎えるあたりから、メディア業界を離れ、全く違う分野も経験したいという思いが芽生え始めた。なにしろ、人生100年時代だとベストセラー書籍も言っているし、自分が携わる雑誌でもウェブでも、そんな記事がてんこ盛りだ。長い人生、もう1つ、2つ、新しいことに挑戦できるのではないかと考えるようになった。
特に、30年以上在籍した雑誌で編集長までやらせてもらい、オンラインメディアの編集長も兼任した。最後はオンラインメディアの有料化(サブスク化)の足がかりをつけ、12歳下の編集長に後進を託した。こう言って不遜に聞こえるとしたら心外だが、メディアの仕事はやり尽くした気がしていた。この先に、さらに面白い仕事が待っているとは思えないのである。
一方で、50歳を過ぎると良い意味でギラギラした野心が抜けてきて、自分のことより次世代に何を残すか、社会貢献や社会課題の解決といった分野に興味が湧いてくる。また、この歳になると若い人たちが相手にしてくれなくなる。それはあまりに寂しいし、放っておけば身も心も老けるばかりである。無理矢理にでも若者たちとフラットな関係で触れ合える環境が望ましい。
しかも、20代から勃興期のインターネット業界を取材し、そこからの急成長を目の当たりにしてきた経験から、そういう成長産業を“中の人”として眺めてみたいという思いはずっとあった。そこで、次の人生の選択肢として挙がったのがスタートアップだった。
とはいえ、スタートアップといって真っ先に思い浮かぶようなITベンチャーでなく、憧れるのはものづくりでイノベーションを起こすような企業である。週刊ダイヤモンドの108年分のバックナンバーを読むことが趣味である身としては、ソニーやホンダの創業期のようなダイナミズムに身を埋めてみたい。
こうした思考経路を通じて浮かび上がったのが、6年前に取材して以来、その事業の革新性に惚れ込んでいたTBMだった。最初の取材以来、同社の幹部とはちょくちょく連絡を取り合っていて、事業の近況は知っていたし、積極的な採用を行っていることも認識していた。
そこで、2021年10月半ばのある土曜の朝、思い切って「私が御社の門を叩いたとして、どこかハマるピースとなれるものでしょうかね」とメッセンジャーを送った。すぐに「具体的に話をしましょう」との返事があり、その後はトントン拍子。残務処理と引き継ぎで1月末までかかったが、2月1日から新天地での仕事が始まった。
与えられた仕事はブランド&コミュニケーションセンター長。広報やブランド領域など対外コミュニケーション全般を担うことになった。その詳細については、この連載で追々お伝えしていこうと思う。
「変身資産」について考えた
『ライフシフト』に出てくるキーワードに「変身資産」というものがある。人生の途中で変化と新しいステージへ移行する、すなわち「変身」するための意思や、変化によるリスクを軽減できる知識や能力のことだ。本書を紹介するネット記事で読んだ。
具体的には3つの要素が必要で、(1)自分に対する知識、(2)多様性に富んだネットワーク、(3)新しい経験に対して開かれた姿勢、が挙げられている。
(1)については意外とやっていた。会社に残る、フリーになる、起業する、転職する……などの選択肢を、自分の適性を客観的に内省しながら絞り込んだ。どれも具体的に思い描き(機会があれば詳しくお話ししたい)、リスクを挙げ、しかし最後は「面白そう」を優先した。「迷ったら面白そうな方に進む」のは、人生の信条でもある。
(2)の「多様性に富んだ人的ネットワーク」は、これまでの仕事柄、自信がある。数千人におよぶ仕事人にインタビューをしてきて、経営者・メディア関係者の知己も多い。その中でも長く関係を保ってきた人たちは、常に新しい視点をくれるバイタリティに富んだ人たちばかりだ。転身を後押ししてくれる強力な仲間になってくれるに違いない。
(3)の「新しい経験に対して開かれた姿勢」は、そもそも編集者に必須のスタンスといえる。もともと、人まねや二番煎じの企画が大嫌いだった。副編集長時代も編集長時代も、売れるかどうかわからないけど新しい企画に挑戦するのを旨とした。ただし、その多くは失敗したが。
こう見ると存外、自分は「変身」の適性があったようだし、必然だった気もする。今回、「50も半ばでよく他業種へのライフシフトに踏み切りましたね」と多くの人に言われたが(みんなちゃんと本は読んでいるんだろうか)、これは単なる転職ではなく、“100年ライフ・マルチステージ計画”の始まりなのかもしれない。