「広告はアートじゃない。」―――クライアントがビジュアルに納得していなかったり、クリエイターが言い訳をするときに登場する決まり文句です。アートディレクターがつくるビジュアルとアーティストのつくるアート、その違いはどこにあるのでしょう。決してクライアントの意向や予算の有無だけではないはずです。
まず、アートは、言葉では表現し難いものを可視化できるようにしたものだと仮定してみます。例えば、世界一長いタイトル(解説文という説もあるが)のダリの絵は、筆舌を尽くしても表現できない心象風景を1枚の絵に可視化した典型的な例かもしれません。また、デュシャンの「泉」はアートの本質を問いかけたもので、鑑賞物としてよりも思考の大胆な可視化が評価されたのだと思います。ウォーホルのポップアートも、単なる工業製品の写しではなく大量生産・消費へのアンチテーゼを顕在的に可視化したものだと読み解く人もいます。本人は「見たままで何の意図もない」とコメントしていますが。アートの第一義的な役割は、思考の可視化であり、送り手側の考え方が色濃く反映されたものではないでしょうか。
一方、広告やプロパガンダに用いられるビジュアルは、誰もが言葉を想起できるように具象化されたものだと思います。広告ビジュアルに求められる第一条件は、ポピュラリティを得ること。つまり、受け手側の評価が重要です。表現の良し悪しの前に、「分からない」は予算のムダに直結するからです。また、プロパガンダに用いられるビジュアルにもポピュラリティは必要です。例えば、異(言語)文化を有する人びとに教えを説く宗教画や闘争心を煽るための戦争絵画は、まさに見るだけで意図が伝わるビジュアルが使われています。見た人が「言語化」しやすいように、送り手の意図より受け手の印象を優先してつくられているのです。つまり、アートは送り手が主体で、ビジュアルは受け手が主体という観点で定義するべきです。
さて、思考の可視化はアーティストに任せて、広告のビジュアルのつくり方を見てみましょう。唐突ですが、この作業は言葉を扱う作家や詩人とは真逆です。例えば、「長いトンネルを抜けると雪国であった。」という一文を読むと、脳内スクリーンには暗闇を抜けた先の白銀の世界がありありと映し出されます。小説や詩の世界では、映像への変換がスムーズにできる表現ほど高評価を受けます。そこで、その逆。ビジュアルを見た瞬時に、頭の中に言葉が浮かぶように。言葉から映像をイメージするのとは反対に、ビジュアルから言葉を引き出そうという目論みです。そして、引き出された言葉が十人中十人とも一致したら、そのビジュアルは言語化に成功している。十分にポピュラリティを持ったビジュアルだと断言できます。これが、広告におけるビジュアルづくりの指針であり、アートとの違いではないかと考えています。
演習してみましょう。「失敗やミス」という言葉を想起できるようなビジュアルを描いてみてください。シチュエーションやアングル、登場人物も無限に考えられますね。ある広告では、「女の子がミルクの入ったコップを床に落として泣いている」シーンがビジュアル化されていました。おそらく老若男女、人種や国籍が違っていても、そこからは失敗、残念、アクシデント…という言葉が次々に連想されるのではないでしょうか。上手く言語化された一例です。こうしたビジュアルは、広告にとって何より大切なポピュラリティをもたらしてくれます。
他にも、ある映画でビジュアルの言語化に成功しているシーンを見つけました。(記憶が定かではありませんが)映像の途中に突然、ストーリーとはほぼ無関係なひまわりの静止画像が挿入されていました。これは、「無言」を意味しているかも。見た瞬間、頭の中に「…」が言語化されたのです。演出上、台詞で埋めたくない無言の間がどうしても欲しかったとします。画面に「…」というスーパーインポーズを入れるわけにはいかず、その代わりとして咄嗟に止まったひまわりを入れたのではないかと思います。発明ですね。もちろん製作者に確認する術もなく、何の根拠もない憶測に過ぎませんが。
ちなみに言語化(引き出そうとする言葉)は、名詞→動詞→形容詞の順で難しくなります。仮に言語化したいものが名詞なら、そのものズバリを撮ればいいし、動詞ならアクションを切り取れば伝わるかもしれません。しかし、心理描写を含む形容詞の場合はかなりハードルが高くなります。無言状態をひまわりで表したような変換やジャンプが必要になるかもしれません。ここでは、「言語では尽くせない微妙なニュアンスを表せるのが映像の魅力だ」という正論を向けないようにお願いしておきます。
さらに、言語化されたビジュアルには、いいことが起こります。ビジュアルを解説する要素が省略できるので、コミュニケーションがよりシンプルになるのです。具体的には、画像(ポスターや写真)の場合は、コピー不要になることもあります。サビニャックやロックウェルのポスター、トスカーニの写真にもコピーは入っていません。社名や商品ロゴさえ入っていれば、メッセージが理解できるようにビジュアルが言語化されているからです。天才アートディレクターの手腕ですね。依頼主から託されたメッセージをたった一人で一枚のビジュアルに凝縮してしまいます。また映像(映画やCM)の場合には、セリフやナレーションを入れずにシチュエーションやメッセージを伝えることができます。いわゆる、映像によるストーリーテリングです。映画界ではヒッチコックやデ・パルマがこの手法にこだわった数々の作品をつくっています。近年の広告表現では商品特長を伝えるメッセージが要求されるので、コピーのないビジュアルのみの動画やCMは見かけなくなりました。
では、ビジュアルの言語化はどこまでできるでしょう?精度を高めれば、 どの国(ボーダーレス)、どの時代(タイムレス)、子供から大人(エイジレス)に適応するビジュアルになります。その例として、サインや標識、ピクトグラム(視覚記号)があります。中でも「トイレ」のピクトグラムは秀逸です。つい生理現象そのものをデザインしがちですが、性別を示すだけ十分。公共の場所で性別分けを必要するのは、トイレだけ。つまり、性別→トイレへと誰もが間違いなく言語変換できることを想定してデザインされています。男女のシンボル化は、区分けされたトイレという言葉を引き出す究極のビジュアルです。
ビジュアルをつくるときに「言語化」という考えがあれば、広告の使命であるポピュラリティが約束されそうです。突き詰めれば、シンプルなコミュニケーション(ストーリーテリング)が可能に。さらに磨けば、ユニバーサルでエターナルな意思疎通を実現してくれます。ひたすらにインパクトを求め、求められる広告ビジュアルのつくり方を少し変えてみませんか?
今回のまとめ:アートは可視化すること。ビジュアルは言語化できること。
次回(早くも最終回)は、コミュニケーションについて考えます。