「どうして独立したんですか」
フリーのコピーライターになったとき、自分よりも若い作り手の方々からそんなことを聞かれました。ここでなにか熱く語ることができたらよかったのかもしれませんが、残念ながらそうもいかず。
「うーん。よくわからないですね」
企業や経営者の想いを言語化する仕事をしている張本人からそんな答えが返ってくるとはまさか思わなかったでしょう。
たしか東京から転職した大阪の制作会社で2年半ほど経ったころだったかと思います。フリーランスとして独立し、ふたたび東京へ移住したのは。
大阪の制作会社は今までにないくらい楽しく、ずっとこのままいてもいいかなと思っていたのですが、10年で10職以上を流転してきた本性は相変わらずだったみたいで。また外へ飛びだしたくなってしまったわけです。どうやら居心地がよくなればなるほど、じっとしていられなくなる人間なのかもしれません。
ただ、「これほどまで自分のやりたいようにやらせてくれる会社はもう他にないだろう」ともどこかで確信できていたので、また転職する選択肢はありませんでした。じゃあ、どうすればいいのか。よし、もうこうなったら仕方がない。環境を変えつづけるのではなく、自分で環境をつくりつづけていくしかないな。結局、人生なんて環境のせいじゃなく自分のせいなんだから。ようやくそんなあたりまえのことを気づかされてフリーになったわけです。
なので冒頭の「どうして独立されたんですか」への答えとしては「独立するしかなかった」というのが正直なところでしょうか。キラキラと輝く瞳たちがどんよりと急速に沈んでいく様子が瞼の裏に浮かびます。
ちなみに個人事業主としての屋号は「一(ぼう)」。なんでもないところに潜んでいる楽しさや美しさこそが企業や商品・サービスの本質的な魅力であり、なによりも新しい価値をいつまでも無理なく生みつづける。だからこそ、まずは自分自身がなんでもない「ただの棒」であろう。そんな想いを漢数字の「一」を「ぼう」と読ませて込めました。
「自分に仕事を依頼してくれる企業が5社くらい浮かんだら独立しても大丈夫」
そんなことをすでに独立して活躍するコピーライターの先輩からは聞かされていたのですが、もちろんそんなあてもなく。この「一」というネーミングやコンセプトをおもしろがってくれた人たちが、サイトに公開していたこれまでの仕事や作品のポートフォリオなんかも見にきてくれて、そこからすこしずつご相談が届きはじめたといった感じでした。
前職の大阪の制作会社からの仕事以外は、直取引の新しいお客さんがほとんど。コピーライターがなんなのかよくわからないまま声をかけてくれる方もいたりして、言葉やコンセプトの重要性を伝えるのにとても苦労した記憶があります。こちらからお見積もりを出しても「こんなにするんですか」と驚かれ、見合った予算をいただけないこともしばしばでした。
「独立したあとはどのように営業をかけて案件を獲得していったのですか」
よくそんなことも聞かれますが「営業をかけている」とも「案件を獲得している」とも思っていなかった気がします。ただただ目のまえの仕事と一つひとつ全力でやりあっていたらなぜか次へとつながっていった。そんな感じでしょうか。つまらない答えですが。とりあえず、当時の口座残高を見返してみても一か八かの綱渡りのような日々だったと思います。息子が生まれたばかりのタイミングなのに。なにやってたんだろう。ほんと。
ただ、そんな地道なやりかたは少なくとも完全なまちがいではなかったみたいで。今ではこちらからお見積もりを出すと「これだけでいいんですか」と驚かれ、むしろ予算を増額していただけることもあったりします。一つひとつのプロジェクトをとおして、まわりのお客さんたちに言葉やコンセプトの価値がすこしずつ伝わってくれたのかもしれません。
まあ、そんなこんなでいつのまにか事業もガタガタガタと音を立てながらではありますが軌道に乗り、『言葉顧問』といったサービスを考えたり、『よくわからない店』を家族と暮らすまちではじめたりすることになっていくわけですが、そのお話はまた次回以降に。
長々と失礼しました。
田辺ひゃくいち
ただの『一(ぼう)』代表。『よくわからない店』店主。コピーライター。コンセプター。慶應義塾大学環境情報学部卒業後、オトナの会社や中国法人の支社長など10年で10職以上を流転したのち、第52回宣伝会議賞グランプリを受賞。もうすこし生きてみることに。東京や大阪の制作会社を経て独立。現在はコンセプトづくりを中心に企業の『言葉顧問』なども務め、2021年には家族と暮らす東京・小平市に『よくわからない店』をオープンした。足立区生まれ足立区育ち。偽名。
Twitter:https://twitter.com/tanabe101