映画づくりは「自分を絞り出すロケハン」から始まる
権八:李監督は作品をポンポンつくられる方ではないので、「次はこれにしよう」と思う時は、ご自身の中でどういう風に決まっていくんですか?
李:「決まる」というより、決めないことがいっぱいあるから決められる感じ、ですかね……。これも違うな、あれも違うなっていう段階を経ないと、「あ、コレだな!」ってなかなか思えない。
権八:なるほど!
李:最初からピンポイントで「コレだな!」って時もあるにはありましたけど、「コレなのかな……?」という瞬間まで待つしかない、というか。
澤本:それ、さっきのロケの喫茶店の話と一緒ですよね。
一同:(笑)。
澤本:すべてにおいてロケハンをしている……、といったら変だけど。いい場所を探しているんですね。
李:そうなんですよ。そうして見つけないと、たぶんみんなついてこれないんじゃないかな、って。ついてくるというか、かかわる皆さんにも絞り出してほしいので。そういう気持ちになってもらうためには、最初に自分が絞り出さないと。というだけですけどね。
今の韓国作品は、“酸素が薄い”気がする
中村:今、Netflixの韓国作品がめちゃくちゃブームじゃないですか?ああいうのはやってみたいと思ったりはしないんですか?
李:う~ん……。Netflixだからやってみたい、とかはあまりないんですね。Netflixのドラマをつくったら世界に観てもらえる、というのは一種の幻想かな、という気もしていて。
「配信だから、観てもらえる」じゃなくて、そこに“観たい”と思わせるきっかけとなる何かが描かれていないと、結局は日本人だけが観て終わっちゃう、ということになるので。そこは難しいんですけど、たとえば『怒り』の時も、海外の映画祭に出すために「ちょっと編集を変えませんか?」という話が実はあったんですね。それを、坂本龍一さんにも相談したんですよ。
というのも、作中の音楽をつくり直さないといけないので。それで、坂本さんと話していた時に、「監督が納得できるんだったら、いつでも直すよ」みたいなことをおっしゃっていただいて。
それに対して「いや、実はあまり向こうが言っていることがよくわからないんですよ」と返事をして(笑)。
一同:ははははは!
李:そういう話をしたら、大島渚監督のことを引き合いに出されて。大島さんは一切、映画祭用に手直ししたことはないよ、と。自分が納得したもので観客に届けばいいし、それで届かないのであれば、そこまで曲げる必要はないんじゃないか、という話をしていただいて。
たぶん、今の韓国のドラマとかに対して、僕はちょっとうがった見方かもしれないんですけど、かなり酸素が薄いんじゃないかなっていう感じを覚えますね。
中村:酸素が、薄い……!?
李:ある意味、どこかで無理に無理を重ねて必死にあがいているからこそ、「次の刺激」や「次の何か」を求めてしまうのかもしれない、と……。でも、いずれどこかで立ち止まるタイミングがやってくるんじゃないかな、という気がしているんですけど。
ホンさんもあれだけ韓国映画のトップクリエイターたちと仕事をしていますが、今回の『流浪の月』は予算的には全然少ないんですよね、韓国映画の大作に比べると。それでも、こういう人間ドラマを丁寧にやるのは久々だからすごく楽しい、と言ってくれて。
澤本:へえ~!
李:韓国で大作を撮ることになると、撮影そのものは予算も潤沢だし、いろんなことができるけど、どうしても車のクラッシュを撮ったり、何かの仕掛けを撮ったりすることになる。だからホンさんが言っていたのは、「韓国では、役者のクローズアップをこんな風には撮らないかもね」と。
やっぱり、そんな感じで人に迫っていく機会をホンさんなりにすごく楽しんでもらえている気がしましたね。一方で、そういったことが、もしかしたら韓国で失われつつあることなのかな、と思いました。
澤本:今、ホンさんの話を聞いていて少しだけ心当たりがあるのは、今回のように「アップにした顔が、いろんなことを言っているな」というシーンは、あまり多くの映画で見られない、という感じがしますよね。
李:そうですね。韓国映画で言うなら、ちゃんと良いアップを撮るんだけれども、そのアップは「答えが分かっているアップ」というか。これは何の感情なのか、何を見せようとしているのかを「見る側が混乱しないアップ」という感じがします。もちろん、すべての韓国映画がそうだとは言わないですけど。でも、観客の「刺激に対する期待」に応え続けるということは、そういう形で表れてきているのかな、という気がしますね。
権八:監督からしたらいつものことかもしれないんですけど、最初の方はほとんどセリフがない、だけどなぜか豊かに語ってくる感覚がある。観ているといろんな想像力を刺激されて、ある種「疲れる」ともいえるんですけど(笑)。
李:そうですね、グッタリしますね(笑)。
一同:ははははは。
李:ものすごく大げさにいうと、ちょっと「踏み絵」的なものがあるのかもしれない。この2人の関係って、見ようによっては許せない、というか。人によっては脅威に感じると思います。気持ちが悪い、とかね。
自分の思い込みだけで物事を判断していくことに、疑問を呈しているので。そういう考え方が果たしてふさわしいのか?ということに、ちょっと抗っているんですね。たとえば、「こういう理由で2人は一緒にいるんです」「この子は、こういう理由で彼について行きました」といったことを情報で埋めてしまえば、安心はすると思うけど「ザワつき」がなくなって、自分自身の「判断のゆらぎ」が生まれない気がして。
違和感を持つというのも、表現として必要なことだと思っているんですよね。映画を観進めるにつれて、自身の思い込みが崩れて疑問が増えていく。そういうことが、一見映画を観ているようでいて、実は自分の良識との合わせ鏡になっていく……。そんな風に積み上げていきたいな、と思っていましたね。
映画を撮ることで「大事なものが漏れている」ことに気づく
中村:少し気が早いんですが、監督が今後撮りたいテーマとか、挑戦してみたいことはありますか?
李:もう今はね、「空っぽ」なんですよ。
中村:あっはっはっは!
李:またロケハンか……。っていうね(笑)。
中村:たしかに。
李:「心のロケハン」が……(笑)。
権八:(笑)。でも、「こうではない」ということを続けて「こうなんだ!」が見つかるまで時間をかけるとおっしゃっていましたけど、映画ではない日常生活を生きる上では、どんなことに目を向けながら暮らしているんですか。
李:ふふふふふ。
権八:笑われちゃった(笑)。
李:難しいなあ……。いや、変わらないと思います。毎日目にする、耳にする情報ってものすごくたくさんあるけど、結構大事なものが漏れている気がしていて。いろいろな情報で埋まっているのに「なんだかなぁ~……」っていう感覚って、あるじゃないですか?
そういう時は必ず何かが漏れている気がして。じゃあ、何が漏れているんだろうな?というのは、特にこういう仕事をしていると思うことがある。世の中で「これはこうなんだ」と言われていることに対して、権八さんは「だからおれは『コピー年鑑』を見ない」って言われたわけだけど。
一同:(笑)。
権八:若い頃ですけどね(笑)。
李:でも、そういう気分とか感覚というのは、ずっとある気がするんですけどね。すみません、答えになっていなくて。
権八:いえいえ、ありがとうございます(笑)。
中村:では、改めて李相日監督から一言メッセージをお願いできればと思います。
李:はい。もう、「観てください」以外のお願いをどうしたらいいのかわからないんですけど。これはたぶん、2回目に観た時、また違う感じを受けるんじゃないかと思っています。1回目に観て腑に落ちなかったことや引っかかったことを、2回目で手に入れることができる映画なのかな、と。前作の『怒り』の時は、嬉しいことか悲しいことかわからないんですが、「もう、二度と観たくない名作」と言われたりしましたね(笑)。
一同:ははははは!
李:今回に関しては繰り返し観ることで何かを発見できる映画だと思うので。
中村:ぜひ、2回、3回と観てください。
李:お願いします(笑)。
中村:Tokyo FMのデジタルコンテンツが集約されているスマホアプリ「AuDee(オーディー)」にて、この番組のトークのみ配信しています。もう一度知りたい、聴きたいという方は、「オーディー」で検索してみてください。というわけで、今夜のゲストは映画監督の李相日さんでした。ありがとうございました!
李:ありがとうございました。
一同:(拍手)
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