中島信也をやめてみることにしました
みなさんこんにちは。なかじましんやでございます。以前は中島信也いうてました。実際中島信也なんですけど「なかじましんやオフィス」っちゅうプロジェクト発足を機に中島信也をやめてみることにしました。なんでやめたんか。
元はといえば小学6年の時に親の本棚で見つけた一冊のKAPPA BOOKS。野末陳平の『永久保存版 姓名判断』という本でした。「え?野末陳平さん?タレントちゃうの?なんやこれ」という好奇心から開いてしまった運命の本。小6の中島くんは早速自分の名前「中島信也」の姓名判断を試みます。すると。
「なんやこれなんかの間違いや」。えらい凶運な4文字なんです。「数え間違いやな」とやり直しますがなんべんやっても「凶」。僕は未来にいやあな予感がしました。
忘れもしないワード「晩年は孤独」。おいおいおい。まあ小6の僕には晩年て言われてもピンと来えへんわけですが、その後の人生においてこの言葉が頭から離れることはなかったんです。
「織田信長がこの凶数。一時栄華を物にするが心が休まる事のない波瀾万丈の生涯」。どこが織田信長やねん、天下なんか取らへんわい、と一応タカを括ってたんですけど来たんです。「社長」が。ちょっと待ってくださいよ野末陳平さん。それともあれかな、僕があの本から受けた波動が引き寄せてしまったんかな。
いずれにしてもこのままではあかん。名前変えよ。でも、親につけてもらった「なかじましんや」っちゅうメロディ、結構気に入ってるんです。というより大好き!突然「白土裕也」とかって名乗るのはなんか変ですよね。なんとか中島信也をやめてなかじましんやをやめへん方法あれへんかな……待てよ、それや!ひらがなや!よし、ひらがなで姓名判断してみよ、とネットにある無料の姓名判断を試みたところ絶好調!念のために漢字でやってみるとやっぱし「凶」!そんなこんなでこれから突入するであろう「晩年」に備えて呪縛を逃れることになったわけです。
前置きがえらい長くなってしまいました。あらためまして「なかじましんや」でございます。よろしくお願いいたします。
「君はビートルズにはなれないよ」
さてさてそんな小6で坊ちゃん刈りの少年がなんでCMの世界に入ったのか、というお話をさせていただきたいと思います。いやいや少年が入ったわけやありませんね。でも少年時代に問題があったわけです。
それは「モテたい」問題です。「人気者になりたい」問題です。
小学生といえば運動会です。人気者になるためにはリレーの選手になって活躍することがマストであることは昭和の小学生の常識でした。ところが中島くん、めちゃめちゃ足が遅かった。裸足になったり、サポーターつけたり、アキレスの靴履いてみたりしても一向に速くならへんのです。
その原因は40代になって受けた脳ドックによって判明します。僕、小脳小さかったんです!ちょっと横道にそれました。「人気者になりたい」でも「足が遅い」。この難題のソリューションが求められました。
深く考える癖のない僕は一発で答えを出しました。そうや「ブルコメ」とか「ピンキラ」になればいいんや。当時、テレビに出ているグループサウンズ。彼らはリレーの選手でもないのにキャーキャー言われてる。これや。ということで僕は香村明良くんと「ミスターケムッチとブルーケムッチ」を結成します。
中学になると視点はグローバルへと向けられ、世界で一番の人気者「ザ・ビートルズ」になりたい、と思うようになり「ザ・栗穴」を結成します。高校では「パンプキン」を結成しオリジナルの曲を引っ提げてキダ・タローさんのラジオ番組に出演したりして夢へ突き進むのです。
勉強にも全くついていけなかったんで、高校卒業を前に父に「大学には行かずにビートルズになる」と表明しました。するとなぜか父が反対するんです。
「信也くん、君はビートルズにはなれないよ」
「なんでやの?」
「いつか言おうと思っていたけど中島家にはね、代々音楽の才能はないんだよ」
「え!?」
「でもね信也くん、中島家にはね、絵の才能があるんだよ」
「え!?」
「絵の大学に進んだらどうなの?」
「え!?」
別段絵がうまいということでもなかった僕ですが、その時にひらめいたんです。「絵の大学、っちゅうのは『アートスクール』っちゅうことやんか」。あのジョン・レノン、リバプールのアートスクールに通っていた時代、よその学校のポール・マッカートニーと出会ってビートルズが生まれます。「これや!」ということで僕、アートスクール経由ビートルズ行きチケットを手に入れるため、美大を目指すことにしました。
商業デザインに疑問を抱いていた大学時代
「行くんやったら芸大やな」と美術の山本修一先生に言われました。「芸大、あ、大阪芸大ですか?」「ちゃう。東京芸大や」。なんもわからなかった僕は、山本先生のもとでデッサンを始めます。全然描けません。それを見た山本先生「信也、油は無理やな。デザインにしろ」「デザインですか?」ということで山本先生に言われるがまま東京芸大デザイン科を目指して上京します。
一浪して東京芸大には受かれへんかったんですが、武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科に受かりました。アートスクールに行く目的は「ビートルズになること」です。入学後すぐに同じクラスの栗原正己くんと「ケチャップ」を結成しました。僕が作詞作曲ボーカルを担当し、栗原くんが編曲・ベースです。
栗原くんはその後音楽の道を進み、リコーダーのユニット「栗コーダーカルテット」を結成します。今はあの佐藤雅彦さんの音楽的右腕としても活躍しています。僕の武蔵美(ムサビ)での活動の軸は高校から続けていたワンダーフォーゲルと栗原くんとのケチャップでした。3年次には芸術祭の実行委員長に就任して忙しい日々を送ってました。
僕はデザインを学ぶ中で、柏木博さんの『近代日本の産業デザイン思想』っちゅう本に強く影響を受けて、「商業デザイン」っちゅうものにちょっと疑問を抱く青年になってました。なので広告の授業には見向きもしませんでした。ただその頃、1983、84年というのは糸井重里さんが登場して空前のコピーライターブームが到来しており、華々しい広告の数々が世の中を賑わしていました。
僕も「広告の世界っておもろいなあ」とは感じていて、同じクラスのロック仲間である中山昌士くん、小林豊くん、そして栗原正己くんと「ヘルベチカデザイングループ」というチームを作って、選択もしていない新聞広告の課題を勝手に提出して講評を受けたりしてました。これが結構評判やったんです。
そんな美大にも「就職」という暗雲が立ち込め始めます。僕はその時アルバイトをしてた「美大受験のための研究所の講師」を続けながらロックをやり、ヘルベチカデザイングループを母体としてデザイン事務所的な活動もしていく、という構想を持ってたので就職活動には一切関心を持ってませんでした。ヘルベチカデザイングループのロック仲間も就活なんかしてませんでした。
僕らのチームのそんな動向を見抜いてか、ある日、ヘルベチカのアジトにIくんが訪ねてきます。Iくんは同じクラスにいたみうらじゅんという漫画家志望の学生に「顔がサイに似ている」とキャラクター化されてた学生でした。このIくんの驚くべき発言が僕の、中山くんの、小林くんの人生を変えてしまうんです。
(次回は10月11日掲載)