【前回はこちら】「ベストヒットUSA」に夢中だった青年が、音楽モノの演出で有頂天に
雑誌のインタビュー記事を読んだCDが激怒?
前回は、下積み時代の僕が好きな音楽編集の仕事に携わり、評価いただいたことについて紹介しました。しかも超メジャーブランドの清涼飲料水。有頂天だった僕は、その後ふたつの失敗をしてしまうのです。
この作品、全日本シーエム放送連盟(現・ACC)の「ACC賞」を獲得しました。そんなこんなで僕は「新進気鋭の若手ディレクター」として雑誌『コマーシャルフォト』の取材を受けることになります。頭の中ではクリエイティブディレクター・坂田耕さんのアシスタントとして関わった作品、ということは意識から飛んでます。有頂天。僕はそこで「こんな企画よりもこれからはもっと新しい企画が評価される時代が来る」的な偉そうな発言をしてしまったんです。
雑誌が出るや否や「坂田さんが激怒してる」ということを坂田さんをよくご存知の薬師寺衛プロデューサーから言われました。「中島は偉そうなこと言ってるけどこの企画だって通すのにどんだけ苦労してると思ってるんだ。何にも知らないくせに売れっ子ディレクターぶって取材受けてとんでもない!」。大抜擢してくださりチャンスを与えてくださった大恩人に対して「恩を仇で返す」とはまさにこのことです。そのことに掲載されてからようやく気づいたんです。
大変申し訳なく、大変不安になってしまった僕は薬師寺さんに「どうしたらええんでしょう?」と問うたところ、「菓子折り持って謝りに行ってくるんだな」と言われました。「カシオリ?」なんやそれ? 謝りに行く、ってどこに行くんやろ? 何もわからずに聞くと「お菓子を持って自宅まで行ってこい」という意味でした。
とにかくその通りにしました。自宅の住所を会社で聞いて、大きなクッキーの箱を手にお宅を探し当ててお伺いしました。坂田さんはおられなかったのですが、逆にご迷惑やったような気がしてます。これが一つの大失敗。
もう一つはこの作品で「さすが中島信也、バンドやってるだけあって音楽モノは天才やな」という思い込みです。その清涼飲料水、超メジャーなだけに制作に莫大な予算を投入していました。僕あほやから、どんな仕事でもおんなじようにスーパーモデルをキャスティングしてハワイで1週間ロケをするもんや、と思ってました。
でも違ったんです。あの仕事、超メジャーブランドやからそんなことができとったんです。それも後で気づきました。他のCMでおんなじように音楽に合わせて若者がイエイ! ゆうても全然ならへんのです、アレに。
僕、音楽モノの天才やからどんなCMでもあのええ感じになる、とこれまた超勘違いしてたことに気づかされたんです。あかん。音楽モノでバリバリ売れっ子になって一流どころに仲間入りするやなんて無理やったんや。やっぱりわしは何者でもない、普通のディレクターやったんや、とそこで気づきます。
「1年でベンツが買えるぞ」頭の中はベンツで一杯に
そんな気づきとは関係なく、時代は盛り上がり始めてました。バブルです。CMディレクターは売れてくると外車を買い、家を建てたりマンションを買ったりするようになりました。「今買うと売る頃には値段が上がってるのでさらにいいものを買える」。そんなことを先輩が僕に言うてました。
そんな折、会社で当時電通映画社(現・電通クリエーティブX)に在籍しておられた亀石美明ディレクターに会うことがありました。
少し先輩で売れ始めた亀石さんは天下のスーパースター川崎徹ディレクターからこんなこと言われた、と僕に話してくれました。川崎徹氏曰く「お前もうフリーになれ。フリーになるとさ、1本仕事するだけでボーナスくらいギャラもらえるんだぜ。毎回ボーナスもらってみな。1年でベンツが買えるぞ。ベンツは速いぞ〜」
「べ、ベンツ!!」。この話を聞いてアホの僕は「そうか、ベンツか〜・・・でへへ」。自分の実力のなさは棚に上げ、頭はベンツに。顔に「ベンツ」って書いて歩いてたんやと思います。ベンツ……ベンツ……ベンツ……。
ある日、会社の前で当時の社長の植村伴次郎さんに呼び止められます。「あ、顔のベンツがバレたか!?」と焦りましたが、伴次郎さんは僕に「しんやくん、ちょっと来なさい」と。あ、やばいかも。しょうがないか、と観念して伴次郎さんについていくとある会議室に連れ込まれました。
CMディレクター人生最大の転機の到来か!?
そこには何やら見たこともない機材とテレビモニターが置かれていました。伴次郎さんはそこにいたテレビテクニカのエンジニアに指示を出しました。「信也くんに見せてやってください」そのモニターの中の映像を見た瞬間、僕の頭の中のベンツは完全に駆逐されました。
「これや!」
そこにあった機械はイギリスクォンテル社製の初期のデジタルVTR編集システム「ハリー」でした。もちろんこの時点で僕がデジタル編集の全貌を掴んだわけではありません。ただその時に直観したんです。「これがあればベストヒットUSAで見たあの謎の最新の映像がつくれる!」「謎の最新の映像がつくれるようになったら、なんの芸も持ってへん僕に持ち芸ができる」「持ち芸ができれば一流どこのディレクターたちに勝負できるかもしらん!」
こうして僕はベンツを一旦棚上げし、デジタル映像を極める道を探り始めました(ベンツは未だ棚上げしたままですが)。これは僕のディレクター人生最大の転機やったと思います。その翌年、1987年に東北新社はこのデジタル編集システムと初期のコンピュータグラフィックスシステムを併せて次世代映像制作基地「オムニバス・ジャパン」を旗揚げします。この新しい基地を根城に僕は持っていなかった自分の持ち芸を確立するために寝食を忘れてデジタル映像にのめり込んでいきました。
当時のデジタル映像技術は今から思えば「デジタル原始時代」の様相でした。コンピュータの計算速度は徒歩とリニアモーターカーぐらいの違いがあります。重ねられるレイヤーも一枚きりでした。ので、Aという映像とBという映像を合成することしかできません。それも数秒のクリップを数時間かけてプロセスします。やっと完成、という時点でノイズが出ることも多々あり、今のわしやったらやってへんかったような延々終わらない根気のいる作業でした。
でもその時の中島くんはヤングでした。オムニバスの設立時28歳。何時間かかろうと朝になろうと夜が訪れまいと「新しい映像の世界を切り拓ける」。それによって自分も演出業界に名乗りを上げることができる、という夢と希望が僕を支えてました。
Aという映像とBという映像を合成することしかできませんが、それによって画像が全く劣化しない。これがデジタル映像の本質でした。それまでもVTR編集によって映像を合成することはできていましたが、アナログVTRやとプロセスのたびに画質が劣化していくんです。これが劣化せえへんだけでも無限のプロセスを構想できる夢のような技術でした。
「これでなんとか持ち芸を掲げて、一流どこと勝負や!」まだまだ髪型が透明化していなかった中島青年は80年代終盤、バブルのお祭り騒ぎには目もくれずオムニバス・ジャパンに籠ってこれまでになかった映像をつくり上げることに命を燃やしていました。
そして!
1989年、これまた運命を変える一本が完成します。その一本とは!!??
(次回は11月14日掲載)