【前回はこちら】佐藤雅彦の登場は「ディレクターの時代からの転換」を意味した
前回のコラムについて、誤解を招きかねない表現がありましたので少し補足したいと思います。
1980年代まで、CMづくりはCMディレクター、つまり監督による原作・脚本・演出という形が目立っていました。したがって人気CMは「誰がディレクターなのか?」という点が注目されていました。
それが90年代に入り「CMプランナー×CMディレクター」というコラボレーションの形、あるいは「アートディレクター×CMディレクター」というコラボレーションの形によって多くの人気CMが生まれるようになって、CMディレクターだけではなく、CMプランナーやアートディレクターの活躍が目立つようになりました。
そのきっかけとなる象徴的な存在として佐藤雅彦さんを取り上げさせていただきました。その後、佐藤さんをはじめとして多くのCMプランナーたちが才能あるCMディレクターとタッグを組み、お互いに信頼関係を築きながら多くの素晴らしいCMが生み出されていきました。これはCMにとっては幸せな進化でした。このことをあらためてお伝えしたいと思います。
クリエイターだと思ってた僕が技術担当?
さて、本題に入ります。
僕は河内義忠プロデューサーに連れられ、「♪スコーンスコーン湖池屋スコーン♪」「♪ポリンキーポリンキー」などの大ヒットCMを連発していた佐藤雅彦さんにお会いしたところまでを前回紹介しました。
当時のデジタル技術を駆使した「アリナミンV」のCM、僕の自慢の「魔人V」を見て、「すごい!びっくりした!」の後に発した一言が、
「このCMには『企画』がない」でした。
は?
「僕は『企画』のないCMを初めて見ました」
え!? どゆこと!?
「企画」あるんとちゃいます? 何を言うてはるんやこのにいちゃん?? 商品から飲んだ人を応援する魔人が出てきて「だいじょうブイ!」とアリナミンVのVを強調して……って企画とちゃうの?
「僕が企画をつくります」と佐藤さん。「僕がつくった企画をしんやさんの『技術』で形にすることができたら、みんながびっくりするようなCMができます!」。確信に満ちた表情で僕にそう言いました。
なぬ? 「技術」? 「僕が脳みそでしんやさんはボディ」みたいなことを言われたような気がして、なんか、いい感じはしませんでした。しかも「技術」? 自称クリエイターやと思ってた僕が技術担当? 心の中で思いました「僕も企画できるわい!」
ほどなく河内プロデューサーによって佐藤雅彦さんとお仕事をする機会を得ることになりました。アリナミンVの直後、1989年の秋やったと思います。フジテレビのCMです。タレントは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のドク博士役のクリストファー・ロイドです。
クリエイティブ・ディレクターは大島征夫さん。後々dofを立ち上げられた方です。コピーライターは佐藤雅彦さんと同期の佐々木宏さん。
太刀打ちでけへん、わしには無理や
まずは企画から始まりました。「僕が企画、しんやさんは技術で演出」というレッテルをひっぺがすために、僕も企画作業に参加させていただくことになりました。電通のそばの会議室。いよいよ企画です。
部屋に入るとまずはびっくり。クリストファー・ロイドの白黒の顔写真をコピーして顔を切り抜き、電源の入ってないテレビに貼り付けて佐藤さん、じーっとそれを見つめてるんです。なにしてはんねんこのにいちゃん……。
「僕はテレビに映った時のことをイメージしないと企画できないんです」
このあたりからただならぬ雰囲気が漂い始めます。
「では企画をやりましょう」
待ってました!「僕がストップウオッチで計ります。3分たったら発表です」。え?なにそれ3分?「では用意、スタート」。?!?「はい3分たちました。では内野さん発表してください」「私はこんな企画です」「なるほど、ここは面白いですね。ここはもう少しなんとかなるんじゃないかな」「そうですねえ」と内野真澄さんという、ずっと佐藤さんと一緒に企画をしている方とのやりとり。
「ではしんやさん発表してください」「あ、はい、えっと、あの……できてません」「あ、そうですか。ではSさんなにか考えましたか?」と制作進行のSさんにも企画をさせます。
その後に佐藤さん。「では僕の企画を発表します。僕は……」。そこに書かれている「企画」は僕の脳みそでは理解不能なものでした。内野さんがその企画を見ていたく感激しています。なにがなんだかわからない世界に放り込まれた感覚……これが「企画」なんや……。
しばしあっけに取られてると、「しんやさんも見えるはずです」「え?」「企画が完成する瞬間、そうですね、難しい数式の解が見つかる瞬間とおんなじです。気持ちよくつながった瞬間にとても美しい、キラキラしたガラス細工のような美しいものが見えるんです。しんやさんも見えますよね?」キラキラ……。「あ、はい、見えるような気がします……」
「やっぱりだ。しんやさん絶対見えると思った。思った通りです」
その瞬間です。あかん。これは太刀打ちでけへん。わしには無理や。キラキラは見えへん。企画は佐藤さんに任せよ。勝たれへん。勝とうとも思われへん。と負けを確信しました。
なかじましんや的CMプランナー時代の夜明け
戦後、伝説のCMディレクター杉山登志さんや東條忠義さん、葛上周二さんらが活躍した1970年代、高杉治朗さんや黒田明さん、川崎徹さんや関口菊日出さんらが活躍した80年代、CMディレクターというのは1人の映像作家でした。自分が原作、つまり企画を立てて監督、つまり演出をする。1本1本のCMには作家性がにじみ出てました。
これに対して電通の小田桐昭さんや博報堂の沼上満雄さんなどが「プランナー」としての地位を確立しようとするのですが、やっぱりCMは監督の作品、という面が色濃くありました。僕は1990年の佐藤雅彦さんの登場が「CMプランナー時代」の本格的な到来のきっかけとなった、と分析してます。
「僕が企画を考えます。しんやさんはそれを形にしてください」
ちょっと聞くと失礼な発言と取れなくもないこの言葉。でも待てよ? それ、ええんちゃうか? そもそもこの世界に偶然放り込まれて、僕が一番悩んでたんは「持ち芸があれへんこと」。そんな僕には「ぜったいCM作家にはなれへん」という自覚があった。
CM作家になれへんということはこの世界では生き残られへん、っちゅう焦りがつきまとってたんです。ほんで、東北新社に入れてもらったおかげで「デジタル」と出会って「これはなんとかなるんとちゃうか?」と思ってはいたんやけど、デジタルだけでディレクターとして生き延びれるか?っちゅう疑問があった。そこに佐藤雅彦さんの登場。そや! 天才の頭脳を形にする、っちゅうディレクションがあってもええんちゃうか? あんまり素敵な言い方とちゃいますが、「他人のふんどしで相撲を取る」。これ、無芸の僕にぴったりやん!
こうして、なかじましんや的には1990年CMプランナー時代の夜明けが訪れたんです。同時にCMディレクター万能時代が終焉を迎えたんです。あくまでもなかじましんや的に、ですが。
ただ、CMディレクターが王様、っちゅう考えを捨て、作家性の確立を放棄して自分を無にできるようになった僕は次々と新しい才能と出会っておもろい仕事ができるようになっていったんです。
90年代には白土謙二さん、佐々木宏さん、古川裕也さん、岡康道さん、黒須美彦さん、多田琢さんのような天才CMプランナーが続々と現れます。それだけでなく、デジタルによる映像づくりはグラフィックの世界の才能もテレビの世界に引き寄せます。当時博報堂にいたアートディレクターの大貫卓也さんをはじめとして永井一史さん、佐藤可士和さんらグラフィックデザイナーと呼ばれるそれまで印刷の世界にいた名手たちが続々とテレビの世界に進出してきました。
これは目の前で映像を構築することができるデジタル映像システムの登場がめっちゃ大きいと思ってます。それまでCM撮影におけるグラフィック班といえばワイルドなCM部隊に遠慮して、肩身狭くスチールを撮ったりしてました。
新しい才能たちの発想を技術で形にしていく
「すみません!ここでグラフィック入れさせてください!」「グラフィック? 3分でやれよ!」。極端に言うとそういう世界でした。それがデジタルによって表現の核心をアートディレクターが握るような作品が続々と現れ、CMプランナーと同じく新しい勢力として90年代を闊歩していきました。
僕は?というと、オムニバス・ジャパンという技術集団を率いて新しい才能たちの新しい発想を形にする監督として生き抜いていくわけです。ええんです。僕、大将やなくても。おもろいCMがつくれれば。今でもそんな思いの延長線上で次々に現れる新しい才能との出会いを楽しみに演出を続けています。
さてそれから。そんな90年代の半ばになるといよいよインターネットが実用化され始めます。20世紀も終わりに近づく頃、ネットの普及とともに「テレビ放送」は大変革の時を迎えようとしていました。
ですが、テレビ大変革時代に移る前にもうひとつ触れなければならないことがあります。カンヌ国際広告祭(当時)のグランプリに輝いたあのCM、そしてあの天才アートディレクターとの出会いについてです。
(次回は11月28日掲載)