本記事では、宣伝会議「編集・ライター養成講座」41期修了生の美里茉奈さんの卒業制作を紹介します。取材対象は、沖縄のロケーションカフェの草分けといわれる「浜辺の茶屋」のオーナー・稲福信吉さん。沖縄の自然との共生を目指し、四半世紀以上をかけて「さちばるやーどぅい」と名付けた土地を磨き続けています。その信念と夢の軌跡をたどりました。
(2021年1月3日提出、2021年12月・2022年4月に追加取材・撮影を行い加筆・修正)
2020年以降、新型コロナウイルス感染症によって、沖縄観光は大打撃を受けている。県の「入域観光客数概況」によると、2020年は対前年マイナス63.2%を記録。2021年はそこからさらにマイナス19.3%も落ち込んだ。2019年比でみると、実にマイナス70.3%である。
「コロナが収束すればお客様は戻ってくると信じている」
コロナ禍も、沖縄の台風と同じ。いつかは過ぎ去る天災のようなもの。
そう語るのは、稲福信吉(いなふく・のぶよし)さん(67)。
沖縄本島の南城市玉城(たまぐすく)にて、「浜辺の茶屋」をはじめとした飲食店や宿泊施設を経営し、市の観光協会理事も務める人物である。
信吉さんが1994年に開業した「浜辺の茶屋」は、沖縄の海カフェの代表格ともいえる存在だ。浜辺に築かれた石積みの上に、ちょこんと載った手作りの木造の建物。カウンター席の木枠の窓からは、絵画のような海景色が眼前に広がる。
那覇からは車で40分。国道からも遠く、便利とはいいがたい場所だが、コロナ禍以前には、1日に450名の来店を記録したこともあるという。
2020年は、緊急事態宣言によって半年ほどの休業を余儀なくされたが、営業を再開すると客足はすぐに戻った。現在の週末の来店者数は200名にも届こうとしているという。観光客だけではない。地元の人たちの姿も多く見られる。
なぜ人々は、あえてこの場所に訪れるのだろうか。
特別な時間を過ごす場所
信吉さんは「さちばるやーどぅい」と名付けた6,500坪の広大な丘陵地で事業を展開している。はじまりは「浜辺の茶屋」を開業した35坪の土地だった。信吉さんは、そこから得た利益のほとんどを、土地の購入と造成に費やして敷地を徐々に広げた。
「我々が提供しているのは、カフェやヴィラ単体じゃない。この空間、場所そのものだ」
信吉さんの目的は、失われゆく沖縄の自然を保全するとともに、人間と共存できる形に整えること。それを「土地を磨くこと」だと表現する。
「浜辺の茶屋」「山の茶屋・楽水」には冷暖房がない。海からの「美味しい」風を楽しむため、荒天時以外は窓を開け放つ。その結果、店内の空気は常に循環し、換気は万全だ。
敷地内にある宿泊施設は、フロントも含め建物はそれぞれ独立していて、車で乗り入れができる。他の宿泊客と接することもない。施設を含めた周りの土地も所有しているから、新しい建物が建つ心配もない。これらが奏功し、コロナ禍でも安心して訪れることができる施設となっている。
「浜辺の茶屋」は、訪れる人を選ばない。ここに集う人は、生まれも年齢も性別も仕事も住まいもバラバラ。共通するのは「この場所を味わいたい」という気持ちだ。
訪れた人が自由に書きこめる「感想ノート」を見てみよう。書き込みで目立つのは、「1年ぶりです」「3回目です」というリピーターだ。
「入籍しました」「仕事を辞めました」など、人生の節目に訪れる人も少なくない。
「この場所にどれだけ感動して心に刻んでもらったかが重要。利益の額じゃない。それが自分の経営スタイル。ただ、赤字は困るけどね」信吉さんは笑った。
国道から離れ、民家もなく、寂れた土地だった「崎原(さちばる)」。
信吉さんは、自分のふるさとの魅力をいつどうやって発見したのだろうか。
アメリカ統治下の沖縄に生まれて
信吉さんが生まれた時、沖縄はアメリカだった。当時の玉城には米軍基地(現・琉球ゴルフ倶楽部)があり、毎日のように嘉手納(かでな)からベトナムに飛ぶ軍用機を見て育った。
「沖縄はずっと戦時下にある」と感じていたという。
1972年、沖縄の本土復帰は、信吉さんが高校3年生の時だった。日本から来た人を見たことはほとんどなかったという。
「ずっとドルを使っていたからね。初めて日本のお金を見た時『これ本当に使えるの?』と思ったことをよく覚えているよ」
学校の授業は日本語で受けていたが、日常的に使っていたのは「うちなーぐち(沖縄語)」だ。今でもうちなーぐちを流暢に話す信吉さん。自分たちの世代が「最後のうちなーぐちネーティブ」だと語った。
このままで終わりたくない
実家がサトウキビ農家だった信吉さんにとって、家の手伝いは重労働で辛い時間だったという。
「もう二度と土を触りたくない」
そう思った信吉さんは、高校卒業と同時に家を出て、那覇の設計事務所に就職した。同級生だった米子(よねこ)さんと結婚し、子どもたちにも恵まれる。
しかし、大卒の同僚と比べて職務内容も給与も違うことに次第に打ちのめされていった。
「将来、このままで終わりたくない。どうすればいい?」
そこで思いついたのが、自分で起業して一国一城の主になることだ。測量士の国家資格を取り、建設省(現在の国土交通省)に登録すれば法人設立ができる。当時の沖縄には専門学校がなかったので、信吉さんは単身で本土に渡って学校に通った。授業の合間には下宿先の青果店を手伝い、必死で勉強に打ち込んだ。
「自分の世界でちょっとだけ努力した」と、信吉さんはその頃を振り返る。
米子さんは、子どもたちと共に実家に身を寄せ、自身も働いて家計を支えた。2年後、信吉さんは資格を得て沖縄に戻り、当初の目標通り起業を果たす。25歳だった。
人生のどん底で「自然の価値」を見出す
信吉さんは、土木設計コンサルタントとして、本土の大企業や政治家・官僚とも仕事をするようになった。外車に乗ってゴルフをし、接待をはしごする日々を送る。150坪の敷地を有する一軒家も建てた。端から見たら「成功者」と見えていただろう。
その当時、信吉さんが手掛けていたのは公共工事や開発事業。沖縄の自然を壊すことだった。がむしゃらに働き続けた信吉さんだったが、30代半ばになると、虚しさを感じるようになっていく。
「あんなに、ネクタイをしめて働くことに憧れていたのに」
追い打ちをかけたのがバブルの崩壊だった。信吉さんは投資に失敗し、巨額の借金を背負ってしまった。
週末に家族と玉城の実家を訪れるようになったのはその頃だ。都市計画区域外だった玉城は、開発から取り残されていた。信吉さんが幼い頃を過ごした「さちばる」の自然は、手つかずのままだった。かつては田舎があんなに嫌だったのに、なぜか慰められている自分が不思議だった。
「自然を壊すのではなく、活かして共存する。そんな空間を作りたい」
いつしか、信吉さんはそう願うようになった。資金のあてはなかったが、すっかりジャングルと化した地で測量を始め、夢の設計図を作り始める。そこで発見したのが、樹齢100年を超えるガジュマルや、琉球国時代の士族が築いた石積みだった。
18世紀初頭、零落した琉球王府の士族たちは、人里離れた荒地に移り住み、そこを開墾して農業を営んだ。
良人(ユカッチュ)と呼ばれた彼らが切り開いた場所、それこそが「やーどぅい(屋取)」だ。信吉さんはその末裔だった。
「ここにあるのは宝だ。自分が磨いて絶対に披露しなければ」
自分の先祖が作ったかもしれない石積みを見て、信吉さんは使命感に駆られた。
「浜辺の茶屋」への道
実家が自営業だった米子さんは「自分も仕事をして稼いでみたい」と自然に思うようになったという。
さまざまな仕事をこなして家計を助けながら、家事に育児にと忙しい日々を送った。お気に入りの場所は喫茶店だった。店員さんの笑顔を見ると、気持ちが和んだ。
「ニコニコ笑顔なら、私にもできるかな」
そう思った米子さんは、自宅のある南風原町(はえばるちょう)で、喫茶店「ちかざん茶屋」を開業した。これが「浜辺の茶屋」の前身となる。
ある週末、信吉さんと米子さんは、玉城の海岸で海を眺めながら語り合った。
「こんなところでコーヒーが飲めたらいいね」
そこには、信吉さんが受け継いだ35坪の土地があった。
「そうだ、土地磨きの第一歩に、カフェをはじめよう」
そう決意を固めた時、ふたりは40歳になっていた。
このプランは「無謀だ」と大反対された。会社を手放し、実家に戻り、借金して新しい商売をはじめる……周りが止めるのも無理はない。
そもそも、さちばるは、人も車もほとんど通らない場所だ。「何かのついで」が成り立たず、カフェを目指して来てもらわなければならない。
沖縄本島の東南にあるこの場所は、台風の影響を大きく受ける。信吉さんがカフェを建てようとした場所は、浜の護岸と同じ高さ。まさに台風がそこから上陸するようなポイントだった。沖縄の台風は時速10~20kmと足が遅く、何日も台風の中に閉じ込められることも珍しくはない。
「台風が来たら、浜辺の建物など一発で壊れるだろう」と誰もが言った。
しかし、ふたりはどんなに反対されても揺らがなかった。自分たちを癒やしたこの土地には、人々が足を運びたくなる魅力があると確信していたのだ……
「奇跡のカフェ」と呼ばれて
「浜辺の茶屋」が開業したのは、1994年12月。資金不足で半年遅れのスタートだった。ネットもスマホもない時代だ。宣伝もままならず、閑散とした日が続いた。
「オーナーがしかめっ面のカフェに誰が来るんだ」
信吉さんは悩んでも仕方ないと開き直り「目の前の海を楽しもう」と、カヤックで海遊びをはじめてみた。
そんなある日、海から奇跡がやってきた。
近所の奥武島(おうじま)を訪れていたカヤック乗りの一団が、信吉さんと浜辺の茶屋を見つけたのだ。海からの来訪者たちが、思いがけず店を賑わせた。それだけではない。彼らの中には琉球新報の記者がいて、浜辺の茶屋を『郊外型喫茶店の草分け』と紙面で紹介したのである。開業して半年、はじめてメディアに取り上げられたことが転機となった。
自然の風景を楽しむ「ロケーションカフェ」の概念は当時の沖縄にはなく、台風を心配し、海の目の前に建物をつくる人はいなかった。浜辺の茶屋は先駆者でもあったのだ。
瞬く間にガイドブックや雑誌・テレビの取材が押し寄せた。大きなイベントも手がけ、週末には付近が渋滞するほどの人が訪れるようになる。
手が足りないと家族も総動員だ。
「週末は、兄貴や姉さん、弟も含めて店の手伝いができるかどうかの確認から始まるんですよ」
次男の堅勇(けんゆう)さんは、当時の家族の様子を語る。
浜辺の茶屋の成功により、信吉さんの経営手腕も注目された。一躍「時の人」となり、週に何本も取材を受けた。この場所に惹かれてやってきた著名人たちとも親交を深めるようになる。
認められたのは嬉しかった。しかし、4年ほどたったある時、忙しさの中でふと思った。
「自分は何をしているんだろう?マスコミにちやほやされることが目的だったの?」
もともとは「さちばるやーどぅい」を磨いて披露し、訪れた人たちを感動させたかったはず。その道はまだ始まったばかりではないか。
原点に立ち返った信吉さんは、再び夢の実現に向かいはじめた。
循環するサステナブル空間
浜辺の茶屋の姉妹店として、海を望む山の中腹に建つ「山の茶屋・楽水」。石窯で焼いたピザや自家製麺のそばなどの、食事も楽しめるカフェレストランだ。
信吉さんは、そこに至るアプローチを「沖縄のグスク」のイメージで作りたいと考えた。
「どこからも融資が降りなくてね。でも、このアプローチはどうしても作りたかった」
ちょうどその時、自宅が区画整理工事区域に入り立退きが決まった。それで得たお金を全てアプローチに注ぎ込んだという。
アプローチの作成は困難を極めた。グスクの石段のように、天然石を手作業で積み上げるため、3人で作業しても1日に3段がやっと。100段の石段を制作するのに、約8ヶ月もかかった。
「山の茶屋・楽水」の先にある、ブーゲンビレアのアーチをくぐり、シーサーが迎える問の向こうに「さちばるの庭」がある。
庭の植物は自然に生えているように見えるが、全て信吉さんがデザインしたものだ。もとから生えていたガジュマルなどの大木や、琉球石灰岩の巨岩を引き立たせるように植栽した亜熱帯の森が作られている。
ちょっとしたトレッキングが楽しめるように、先人が石積みをした道を整備した。森だけでなく、海を眺められる広場や展望スポットも備えている。この地を冒険したときに発見したガジュマルの1つを中心とした広場も作った。
それだけではない。この広大な庭は、先進的な試みを取り入れたサステナブル空間でもある。
浜辺の茶屋と山の茶屋・楽水では、店の自家製パン・ピザ生地・麺などに使う小麦の無農薬栽培を2014年から開始した。畑の土壌は、剪定した庭の草木や店から出るピザ釜の灰、コーヒーかすなどの残渣を混ぜて、庭で作った腐葉土だ。
「さちばるの庭があってこその『さちばるやーどぅい』だよ」
「さちばるの庭」を含めた空間まるごと全て。信吉さんが提供するのは景観だけではない。自然の循環を考えて磨き上げられた土地そのものなのだ。
現場班の貢献
「さちばるの庭」に足を踏み入れた人は「ここには、手つかずの美しい自然の風景が広がっている」と思うかもしれない。
信吉さんは、そう思われるように空間をデザインしている。敷地内の電線も「景観にそぐわない」と全てを手ずから地中化した。信吉さんのビジョンを実現する作業を、共に行うのが「現場班」と呼ばれるメンバーたちだ。
「口コミや紹介、信吉さんのツテで集まってくることが多いですね」
竹林さんは、カフェの店長を務めながら、現場班の作業も担当している。大阪で会社員をしていたが、10年前から知人の紹介で働きはじめたという。
株式会社さちばるの庭の採用では、学歴や経験は問わない。必須条件は、草木が好きで、目的意識がある人。
「人の価値は、生まれや人種、学歴などでは決まらない」というのが信吉さんの持論だ。
現場班の仕事内容は多彩で、園芸や造園だけなく工事も行う。森の中の山小屋や、ヴィラに至る敷地内道路は、信吉さんと現場班だけで作り上げた。
「対自然の仕事は筋力を使いますが、リフレッシュもできますね」
竹林さんは語ってくれた。
興味深いのは、この地で自然と触れ合っているうちに、新たな才能を開花させた人が何人もいることだ。
「突然ヴァイオリンを自作して、職人になるってイタリアに渡ったのもいるんだよ。それまで楽器に触ったことなんてなかったのに」
信吉さんは、嬉しそうに微笑んだ。
感動の損益分岐点
「自分がこれまでやってきたこと、これからやることも全て『作品つくり』だと思っている」
信吉さんは、自分を「土地の磨き屋」だと自称する。
その目的は、これまで振り返られなかった場所の魅力を探し出し、磨き上げて価値を高めること。
米子さんは、その活動を「事業を作品とするアーティスト」だと表現し、創作活動に邁進する夫を支え続けている。
ただし、信吉さんは、自分の「作品」に決して慢心しているわけではない。
「赤字でも事業を続けるというのは、経営者としてあり得ないと思ってる」
自分の感性と、お客様が感動するポイントのバランスが受け入れられるからこそ、自分の事業が成り立っているのだという。
「人の感性はみんな違う。ここに来てくれた人全員が、自分の作ったものに感動することはあり得ない」
信吉さんいわく、事業として成り立つ損益分岐点は70%だそうだ。
「作ったもので70%の人の心を動かすことができたら、黒字になって食べていけると思う」だけどね、と続けた。
「自分は、それよりちょっとだけ上、75%の人たちを感動させることを目指しているんだよ」
かつて、測量士の勉強をした時の「自分の世界でちょっとだけ努力」は、ずっと心の中に。信吉さんの変わらない指標だ。
コロナを越えて
「成功ってなんだろう。経済的に余裕があること?それなら自分は成功しているとは言えないよ」
信吉さんは語る。自分がこの土地を磨いたことで、訪れたお客様に喜びを与えられた。それこそが自分の成功だと。それは、効率を重視する外資や本土企業にはできない。沖縄にルーツを持ち、その自然を知り抜いた、自分たちだからこそできることなのだ。
2020年、コロナ禍での休業中「大掃除だ」と倉庫を開けた。そこには、大量の写真や資料とともに、過去に受けた取材の記事やビデオテープが保管されていた。
信吉さんと米子さんは、それらを整理して今までを振り返った。
26年前、何もなかった場所にふたりで浜辺の茶屋を作ったこと、「さちばるやーどぅい」と名付けた土地を磨き続けてきたこと……
途中で「もうやめたい」と何度も思った。台風で建物がめちゃくちゃになったこともあった。工事がなかなか進まず、精神的に追い込まれたこともあった。苦労も借金もたくさんしたけれど、自分たちが作り出した空間を改めて誇らしく思ったという。
2021年になっても、信吉さんの「土地磨き」は続いていた。コロナ禍でも、相対する自然は変わらない。新たな工事や庭の整備に勤しんだ。
11月には、「浜辺の茶屋」から道路を挟んだ向かいに、1500平米の「さちばる広場」が完成した。「さちばるやーどぅい」の敷地内のどこからでもアクセスしやすい場所だ。
広場にはもとからあったアカギの木たちを残し、琉球石灰岩の石積みで囲んだ。今後を見据え、屋外営業のための「パーラーさちばる」も新たに建てた。
12月の第一週の週末には、さちばる広場のお披露目イベント「浜辺のMARCHE(マルシェ)」を開催した。「海と緑と地元をたのしむ」をコンセプトに、人気の飲食店やクラフトショップが軒を連ねた。
天候にも恵まれ、のべ800人ほどが訪れる賑わいを見せた。
「この場所は、磁石なんだよ」
かつて、ハワイで見た地元の食とアートを楽しむマーケット。その活気をこの地に再現したかったという。
「あそこではいつも楽しいことをやっているよね」
そんな風に人々を惹きつける場所にしたい。広場に残したアカギの木は、十年後には人々を癒す木陰を作るだろう。「さちばるやーどぅい」の計画はこれからもずっと現在進行形なのだ。
今後コロナはどうなるかわからない。コロナが収束しても、新たな危機が訪れることもあるかもしれない。経営が厳しくなれば、閉業を考えなければいけない時が来るかもしれない。それでも。
「先祖代々の土地を磨いて、今の人が求める形で世に披露できたことは仕事冥利に尽きるよ」
信吉さんは破顔した。
「あんたも、『自分が好きになれること』を仕事にしなさいね」
取材協力
株式会社さちばるの庭
稲福信吉様・稲福米子様・稲福堅勇様・稲福剛治様・竹林哲夫様
「さちばるやーどぅい」公式サイト
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参考文献
小林ゆうこ『奇跡のカフェ 沖縄 浜辺の茶屋物語』(河出書房新社,2008.)
沖縄大百科事典刊行事務局『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社,1983.)
南城市「南城市人口ビジョン」平成28年2月
美里 茉奈(みさと・まな)
沖縄県南城市在住。
会社員を経て、2016年よりライター活動を始める。観光・ホテル・飲食店などに取材を行い、多くのメディアに寄稿。2020年夏「編集・ライター養成講座」第41期修了後は、企業経営者インタビューやDXなどビジネス系の記事に加え、ユーザビリティを考えたUXライティングなど幅広い分野に取り組む。