横のつながりも多い広報の世界。本コラムではリレー形式で、「広報の仕事とキャリア」をテーマにバトンをつないでいただきます。朝倉慶子さんからの紹介で今回、登場するのは神田 健太郎さんです。
アクセンチュア
広報室長 神田 健太郎氏
2000年大学卒業後、商社に入社。半導体のマーケティングを担当。その後起業し、中古車の輸出業を営む傍ら、自己PRに悩む学生向けのコンサルティングサービスの提供を開始。このサービスが外資系PR代理店ウェーバー・シャンドウィック社の目に留まり2004年同社に入社。主にグローバルIT企業を担当。2008年、アクセンチュアに移籍。 1人広報の冬の時代から、PRに対する社内の理解獲得から始めて徐々に陣容を拡大。2017年、初代広報室長に就任。現在に至る。
Q1:神田さんの現在の仕事の内容とは?
アクセンチュアの広報室長を務めています。広報室の職掌範囲はプレスリリース、取材、会見、寄稿やリスク対応など、報道機関に対するコミュニケーションをカバーしています。社内コミュニケーションや採用広報などの業務は、マーケティング・コミュニケーション本部の他チームが担っていますが、常にクロスチャネルの連携を意識しながらプロジェクトを進めています。
アクセンチュアは目に見える製品や、スペックで計れるサービスは提供していません。したがって、広報で発信する案件は当社が支援したことによるお客さまや社会で生まれた変革の成果であったり、まだ世の中に存在しない新しい考え方、価値や仕組みだったりします。
また、カバー範囲は民間・行政機関や業界を問いません。扱うトピックも生成AI、サステナビリティ、大規模システム導入、デジタル人材育成から、地方創生、顧客体験の変革まで多岐にわたります。私の仕事内容は、これら社内に数多あるネタを発掘・取捨選択しつつ、当社のパーパスである「テクノロジーと人間の創意工夫で、まだ見ぬ未来を実現する」を体現するストーリーへと昇華させて発信することです。
この過程においては、目に見えないサービスであるがゆえに、人や国によって異なる言葉の定義やゴールのイメージを、企業のメッセージとして同じベクトルに収束させることが肝要です。国内外、社内外のステークホルダーとの緊密な連携が欠かせません。
Q2:これまでの職歴は?
2000年に大学卒業後、商社に入社しました。シリコンバレーにある半導体企業のDRAM、SRAMやフラッシュなどの汎用メモリー製品を、国内電機メーカーなどにプロモーションするマーケティング業務に携わりました。入社直後はドットコムバブル全盛でしたが、わずか一年足らずでバブルが崩壊。需要と供給が一気に逆転しました。
新卒入社3年後に、一念発起して日本の中古車を海外に輸出する会社を立ち上げます。例えば、10年落ちの10万キロ走った車を5,000円で仕入れて、30万円で海外に販売するといったビジネスです。ただ、為替に大きく左右されるビジネスであったため収入は安定せず、大変な苦労をしました。この状況を打開すべく2本目の柱として立ち上げたのが、就活生向けのエントリーシート、自己PR添削のオンラインサービスでした。これが、PRとの初めての接点となります。
前職であるPR代理店ウェーバー・シャンドウィック社の人事担当役員の方がたまたま私のサービスを目にして、「貴殿のやられていることを、企業相手にされるおつもりはありませんか?」という丁寧なお手紙を書いて下さいました。当時20代後半だった私は、すべてを我流で進めるのではなく、一度プロのもとでPRを学び直しても遅くはないと思い、立ち上げた事業を清算してウェーバー・シャンドウィックへ入社します。
代理店入社後は、外資系ソフトウエア企業や、セキュリティ関連団体などの広報に携わります。BtoB領域で、エンタープライズITのサービスや製品について触れたのもこのタイミングです。この時に出会った記者の方々や、苦楽を共にした当時の仲間たちと今でも親交を持てていることは本当にありがたいことです。ウェーバー・シャンドウィックには4年ほど在籍し、2008年にアクセンチュアに広報スペシャリストとして移籍しました。以来、会社の成長とデジタルの趨勢を間近に感じてきました。
Q3:転職や社内異動などに際して、強く意識したこととは?
転職や異動に限った話ではないのですが、「最上志向」が自分の原動力であると認識しています。この資質は「ストレングスファインダー」でも自分の特長として突出していました。「まだもう少し何かできるはずだ」「もう少し高みを望みたい」というもので、言い換えると、その先の姿は自分にとっても未知のものであって、確固たる自信も経験もなかったりします。
前職のPR代理店では、例えば18カ月毎に訪れるクライアントの新製品を、現バージョン発表時の結果を上回ることを必達目標としつつ、機能差分やキーメッセージをいかに織り込めるかというプロダクトPRにどっぷり漬かっていました。
そんな自分がアクセンチュアに移籍したときに真っ先に抱いた感情が「不安」でした。代理店時代のプロダクトPRで培った経験や手法がほぼ通用しません。日常業務のすべてがコーポレートPRになりました。目に見える売り物がない会社について、どこからネタを仕入れて、どのように料理すれば発信に堪え得るものになるのか、皆目見当もつきませんでした。
よく言えば「最上志向」、もしかすると「往生際が悪い」とも言えるかもしれません。不安と自分の不甲斐なさに心が折れそうになる日々が続きましたが、諦めるという感覚はなかったと思います。自分が選んだ選択で後悔はしたくなかったので必死にコーポレートPRを勉強しました。
加えて、人が資本の会社である以上は人とのつながりがなければ仕事になりません。一人でも多くの社内キーパーソンに自分の存在を知ってもらうための活動にも心血を注ぎました。
例えば、担当した事業部門に関するニュースや市場・競合情報などを取りまとめて、毎週、部門長含めた管理職に、勝手に部門ニューズレターを作って送りつけていました。始めて数か月間は何の反応もありませんでした。しかし、しばらく続けると「この情報を次の提案に入れたいから、フルレポート入手して」などのリクエストを受けるようになります。嬉しかったですね。そこからは、部門の案件進捗管理会議などにも呼ばれるようになり、お客さまの課題やそれに対する提案の方向性などをつぶさに見聞きする機会が増えてきました。
「ポジションが人を作る」と言われたことがあります。自分は腹落ちする言葉の一つです。強制的にでも一段上の環境に身を置いてがむしゃらになることで、また違う景色が見えてくるのではと思います。
Q4:国内において広報としてのキャリア形成で悩みとなることは何でしょうか?
誰に向かって仕事をするかのバランス感覚だと思います。広報職はインハウスでも代理店でも、さまざまなステークホルダーとの板挟みになるものです。
例えば、誤解を恐れずにとても大雑把に言うと、Whyを大事にする英語圏のコミュニケーションと、Howを大事にする日本のコミュニケーションは、本質的には相容れません。海外エグゼクティブの取材や海外プレスリリースの直訳が日本で好まれない理由はここに起因するでしょう。これを本国やクライアントからのプレッシャーなどで無理に活動を推し進めようとすると、いびつなコミュニケーションになります。
記者、自社/組織、お客さまなど、それぞれのステークホルダーが描く理想をそのまま受け入れて一つの成果につなげることは困難を極めます。できないこと、すべきでないことにはNoと言うこと。ただし、「この方向であれば実現できます」という、「No but Yes」の姿勢が大事だと思います。
Q5:広報職の経験を活かして、今後チャレンジしたいことは何でしょうか?
PESO(Paid、Earned、Shared、Owned)の垣根を超える取り組みにチャレンジしたいです。これらはあくまでもチャネルの一つであり、経営者は「広報」をしてもらいたいのでも、「広告」を打ちたいのでもありません。最適なマーケティングやブランディングの手法によって、自社の企業価値を上げることを期待しています。
一方で、自戒の念も込めて、それぞれのチャネルに身を置く人間は、自分の領域のサイロに閉じこもってしまいがちだと感じています。これからも、いろいろな立場の方々との対話を通じて、この課題に一石を投じていきたいと考えています。
【次回のコラムの担当は?】
日本電気 シニアディレクター コーポレートコミュニケーション統括の岡部 一志さんにバトンをお渡しします。岡部さんは外資、国内企業の広報・コミュニケーション部門をバランスよく経験されていらっしゃり、広報キャリアのお手本のような方です。社会が求める情報を、トップを巻き込んでタイムリーに発信し続ける手腕など、日々勉強させていただいています。