アイデア属人化からの脱却
「“あったらいいな”をカタチにする」――言わずと知れた、小林製薬のブランドスローガンだ。それまで世の中になかった新商品を開発し、新たな生活習慣を普及させることで、市場を生み出し、広げる。アイデア発想力があるメーカー企業というイメージを持つ人は少なくないはずだ。
「やはり当社の特徴は、他にはないユニークな商品群にあると思います」と話すのは、小林製薬でアイデア発想推進グループを立ち上げた田原申也氏だ。
「そのユニークさにつながるのは、お客さまが抱えるニッチなお困りごとを発見し、解消するための商品やサービスの開発プロセスです。暮らしの中で見過ごされがちな、『お困りごと』を当社のアイデアと技術によって解決することで、お客さまにご支持いただくというのが基本の考え方です」(田原氏)
創業130周年を目前とする同社が、これまで培ってきたアイデア発想力。田原氏はなぜ、それを支援するグループを組成したのか。背景にはいくつかの要因がある。
そのひとつが、「アイデア発想の属人化からの脱却」だ。ノウハウ自体は各事業部に蓄積されていたり、全社的にアイデアを生み出す文化も根付いていたりするものの、やはり部署ごと、人ごとに差が生じてしまうという問題意識があった。
そして、2023〜25年にかけての現中計。テーマは「私が”あったらいいな”をカタチにする」である。田原氏は、「『私が』とこれまでのブランドスローガンに主語が添えられているところに、社としてのメッセージ、意志があると考えています」と話す。
「これまでは、語弊を恐れずに言うならば、生活者のニッチなお困りごとさえ見つけられれば、商品は作ることができるという驕りもあったのではないかと思います。しかし、ここ数年の社会の変化を踏まえ、私たちは自身の実力に真摯に向き合いながらよりシャープに能力向上していく必要があると考えています。これまで以上に価値観・生活様式が多様化していくので、さらに踏み込んだ取り組みができないと『見過ごされているお困りごと』の解決まで貢献できないということです」(田原氏)
約3500人(連結)の従業員一人ひとりが「“あったらいいな”をカタチにする」に取り組むには、やはり体系化が不可欠。その体系化の手法として小林製薬が目をつけたのが、「プロトタイピング」だった。
「“あったらいいな”をカタチにする」ためのプロトタイピング
「プロトタイピング」は製品を作り込む前に、考えていることをカタチにしてみるための手法である。ただ、「“あったらいいな”をカタチにする」ためには、「どのようにカタチにしていくのか」をしっかりと定義して体系化していく必要があった。そこでパートナーとなったのが、S&D Prototyping(エスアンドディープロトタイピング)の三冨敬太氏だった。
S&D Prototypingは、「プロトタイピング」を軸に、新規事業・新製品の開発支援や、組織・個人の能力開発支援を手掛ける企業だ。慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科で、プロトタイピングを研究していた三冨敬太氏が創業した。研究で得た知見を実務に生かし、小林製薬以外にも、パナソニックホールディングスやサントリーホールディングスなどで、各社とのプロトタイピングや体系化を進めてきた。
小林製薬のアイデア発想推進グループとの取り組みでも、アイデア創出からプロトタイピングまでのプロセスを図式化し、分析。現在の小林製薬のアイデア創出からプロトタイピングのプロセスをヒアリングして明確化した上で、研究で得た知見や実務における経験を踏まえて、「“あったらいいな”をカタチにする」ためのオリジナルの「使える」プロトタイピングプロセスを策定した。実際に使うことを踏まえたスケジュールやタスク分類、テンプレート(ひな型)となる資料なども用意し、進め方や、各人の状況を可視化できるスキルの体系化を施した。
「プロトタイピングを実施する上で意外と抜け落ちがちな視点が、スケジュールの策定です。プロトタイピングはいくらでも時間をかけることができてしまうので、関係するメンバーの工数を把握した上で、最も少ない工数で、最も早く、安価に、何度もプロトタイピングできるスケジュールを引くことが重要です」と三冨氏は話す。小林製薬のアイデア発想推進グループでもこの考え方を活用しているという。
「体系化プロジェクトを進める上で、パートナー決定までに複数社と面談をしましたが、三冨さんについては『この人だ!』と感じました」。こう話すのは、アイデア発想推進グループ立ち上げ時からのメンバー、浅野良太氏だ。
「研究で得たプロトタイピングに関する学術的な知見に基づきながら、事例も豊富に持っておられます。そのため、具体的な活動について、なぜ重要なのか、どういう研究根拠があるのか、などの対話を丁寧にしていただけました。三冨さんとの対話で私たちが受けた気づきや納得感は社内にも通じると感じました」(浅野氏)
「『とりあえずやってみる』。そのようなアプローチでプロトタイピングを実施することも当然可能です。ただ、プロトタイピング戦略という研究分野があり、どのようにプロトタイピングを実施することが効果的なのかがまとめられています。そのような研究を実践に活用していくことで、効率的にプロトタイピングをすることができます」(三冨氏)
プロトタイピングに対する認識の違いをなくす
さて、こうして体系化が済んでも、額縁に入れて飾っておくわけにはいかない。しかし、ともすれば策定自体がゴールになってしまい、現場では使えないということもありうる落とし穴だ。体系化したのはプロトタイピングのプロセスというが、プロトタイピングは、アイデア発想なのか、試作品づくりなのか。ここまでで違和感を覚えた方もいるかもしれない。「『プロトタイピング』と一口に言っても、実は人によって認識が異なります」と三冨氏は話す。そして、その認識の違いが、実践の場での障害のひとつにもなり得る。
「たとえばエンジニアなら作り込みのフェーズ、デザイナーならアイデアのフェーズでのプロトタイピングを重視します。ふだんの業務の慣習などもあるので、それぞれが『プロトタイピングとは、こういうもの」という認識を持っており、それが内面化されていればいるほど、食い違いというものも発生しやすくなります」(三冨氏)
実際、「前提とする認識の違いは大きいと感じます」と浅野氏も語る。
「社内のほかの部署とアイデア会議を設定した際を例にあげると、アイデア会議の時点でプロトタイピングをする必要はあるのか? というのが第一声でした。なぜそう感じるかというと、プロトタイピングというと、より完成形に近い試作品づくりという認識だったからです」(浅野氏)
技術開発部門でいうなら、プロトタイプと言えば試作品。アイデア段階でプロトタイピングをするということは少なかった。また、開発部門所属ではない社員からすれば、「自分たちがプロトタイピングに参加できるのか?」という不安もあったようだ。「必ずしも試作品づくりではなく、これまで私たちが意識せずに実施してきていたことでも、実はプロトタイピングだという説明をしました」と浅野氏。
「たとえば商品開発時に社内で用意するアイデアシートや、テレビCMであれば画コンテのようなものも、実はプロトタイプになっている。では、そのアイデアシートや画コンテを対象者に見てもらい、生のご評価を得ませんか、といった話をしています。認識が違うことによるハードルは思いの外高いもので、定着にあたっては、無造作にせず、丁寧にコミュニケーションしていくことが必要だとわかりました」(浅野氏)
プロトタイピング3つの効用:「学習、動機づけ、意思決定」
小林製薬のアイデア発想推進グループの当初からの目的は、同社のアイデア発想の知見を形式知化し、各社員が主体性を持って、商品開発や新規事業開発、さまざまな場面で、『私が”あったらいいな”をカタチにする』を実践できるようになることだ。同グループが体系化したプロトタイピングによるアイデア開発プロセスを社内で広めていく上で、少しずつ効果が現れ始めた。
田原氏は、「アイデア発想や開発プロセスにおけるコミュニケーションがうまく回り始めた感覚が確かにある」と話す。同氏によれば、文化としてアイデア発想を重視する小林製薬であっても、ポジションや職種、世代の違いが、「あったらいいな」の芯をとらえる商品開発の議論を冷ましてしまう場面もあった。年次の浅さ、経験の少なさから自ずと積極的な発言がしづらかったり、あるいは指摘する側も、無意識にアイデアの評価にそうした背景を組み入れてしまったり、ということがあったという。
「しかし、アイデア発想の段階でプロトタイピングを取り入れたことで変化の兆しが見られます。アイデアを脳内から外部に出し、生活者からのダイレクトな評価をもとに、開発チームで同じものを見ながらコミュニケーションをすると、非常に有効な議論ができると感じます。若手からも積極的に提案しやすくなるし、これまで製品開発になかなか参加できなかったマーケティング担当者も、一緒に手を動かすような動き、一体感が出てきています」(田原氏)
モチベーションも高まってきた。浅野氏は、「自分のアイデアに対してお客さまから面と向かってフィードバックをいただけるのが刺激的」と話す。
「『まさに困っていた』『いや、これはちょっと買おうとは思わない』といったご意見をいただけるのが刺激的。その反応をいただきたいから、またプロトタイピングしたい、お困りごとを解決するアイデアづくりをしたい、という良いループが回り始めています」(浅野氏)
こうした効果は、まさにプロトタイピングが持つものだという。三冨氏は「プロトタイピングには、学習効果、コミュニケーション効果、意志決定効果の3つがあります」と解説する。
「学習は、プロトタイプをつくる過程や、そのプロトタイプをお客さまに提示して一次情報をすばやくいただくことによって行います。田原さんや浅野さんのお話のように、コミュニケーションがよりスムーズになったり、それによってさらにモチベーションが高まったりもします。意志決定効果もまさに話にあがりましたが、発案当事者以外のステークホルダーの納得も得やすくなることも、大きな特長と言えます。この3つの効果を、狙ってつくり出していくことが重要です」(三冨氏)
プロトタイピングの体系化が終わった後も小林製薬とS&D Prototypingのプロジェクトは続いている。実践を経ながらブラッシュアップを重ねているという。
「暮らしの中の見過ごされがちな「お困りごと」を発見し、今までにない「アイデアや技術」によって解決することは、曖昧で不確実性の高い取り組みです。アイデア発想をする一人ひとりが、かなりの部分で想いや主体性を持って取り組む必要があります。体系化を経て社内に浸透させていく上で、いくつか手応えを得られていますが、プロトタイピングは『私が“あったらいいな”をカタチにする』上で不可欠の要素だと思います」(田原氏)