宝島社の蓮見清一社長が、2023年12月14日に亡くなりました。
移動中にその知らせを受けショックに呆然としながらも、僕は「新聞広告はどうなってしまうんだろう」という身勝手なことを考えていました。四谷でタクシーを降り、宝島社がある半蔵門方面を眺めたら込み上げるものがあり、慌てて飲み込む。ついこの間、ダイヤモンドホテルで笑ってらしたのに。
このようなタイトルの文章を書くのに、僕が適任かどうかわかりません。企業広告を蓮見さんとともにつくり上げた前田知巳さんや、長くお付き合いのあった能丸裕幸さん(ADKクリエイティブ・ワン エグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクター)の方がふさわしいかもしれません。僕はただただ、蓮見さんが試みていたことを僕なりに記しておきたいと思ったのです。
「広告とは、企業の社会的姿勢を示すものである」を実践した、唯一の経営者
1998年、宝島社が最初に出した企業広告が、「おじいちゃんにも、セックスを。」でした。
詩人の田村隆一さんを起用したその広告の真価を、僕は最初、わかっていなかったと思います。ドキッとはする。おお!と思う。その上で「で、なんなのこれ?」という感覚でした。本当に新しいものは、なかなか理解できないものです。
それは「高齢者問題を考える本の広告」ではありませんでした。自社製品を売る広告ではなく、自社の活動を誇る広告でもなく、ただただ社会に対して問題提起をし、驚きと戸惑いとうなずきを与え、その問題について人々が考え始めることを目的にした広告。
1990年代、世界中で話題になったオリビエーロ・トスカーニのベネトンの広告とほぼ同じ手法でした。蓮見さんがどれだけベネトンを意識していたのか、ちゃんと尋ねたことはなかったのですが、僕は、蓮見さんは日本のトスカーニだと思っていました。
「広告とは、企業の社会的姿勢を示すものである」。これを実践した唯一の経営者であり、企業広告の(実質的な)クリエーティブ・ディレクターだと思っていました。
1980年代、セゾングループを率いた堤清二さんも、ほぼ同じ意識を持たれていたと思うのですが、蓮見さんはもっと過激でした。新聞広告を「何かを宣言する媒体」ではなく(堤さんの姿勢はこれだったかも)、驚きと反発をともないながら「問題意識を世の中に拡散してゆく媒体」ととらえていたように思います。
新聞広告を出稿することで、世の中に眠っている関心事を、驚きを持って顕在化すること。人々がそれについて考え、つい話したくなるような表現であること。異論、反論、反駁OK。文句があるならいつでも来い!それが、最後の最後まで僕らクリエーティブスタッフを鼓舞し続けた、蓮見さんのクリエーティブ・ディレクションでした。
蓮見さんが新聞にこだわった、ふたつの理由
思い出話をするとキリがありません。蓮見さんは打ち合わせ後、必ずごちそうしてくれました。半蔵門のダイヤモンドホテルで、神楽坂の割烹で、何度も一緒に飲み、亡くなる前の週も、2024年正月原稿の最終チェックにうかがい、ごちそうになりました。飲みながらの放談こそ、原稿のヒントでした。社会というものを、どう見つめたらよいのか、どこから切り込んだら良いのか、僕らは蓮見さんから教わっていました。
こんなにも広告で世の中と対峙している人はいない。
こんなにも新聞広告を使いこなしている人はいない。
僕はお会いするたびに感心していました。
時代を反映し続けたそれぞれの原稿についての話は、次回へとゆずります(興味のある方は次の記事にもおつきあいください)。
今回は冒頭に記した「新聞広告はどうなってしまうんだろう」という僕の身勝手な感想について記したいと思います。
蓮見さんは最後まで新聞広告にこだわりました。その理由を僕なりに考察すると、ひとつは「パブリックな場所であること」でしょうか。
宝島社は多くの雑誌メディアを持っていました。その総部数はかなりのものです。もちろん自社のHPもお持ちです。けれど、そんな自社メディアで発信することに、蓮見さんの興味はありませんでした。
そんな「仲間内で」「味方だけの場所で」発信することに、蓮見さんは興味がなかったのです。
新聞というパブリックな場所で、敵も味方もいる場所で、衆人環視のもとでこそ、声を上げるべきだ、問題提起をすべきだと考えていたのでしょう。
あらゆる言論が内へ内へ閉じている今、あらゆるメディアが「ファンの囲い込み」に走る今、そのオープンな姿勢は素晴らしいと思っていました。
敵がいること、反発もあることを承知の上で、パブリックな場で発言する。その公平でジャーナリスティックな姿勢に、僕は感心していました。エラそうな言い方をすれば、この蓮見さんの思いを、どれだけの新聞社が理解していたでしょうか。
「何万部」というリーチの数字だけでなく「敵味方いること」という新聞が持つ「公共性」という価値を、こんなにも理解していた人がいるでしょうか。前述しましたが、蓮見さんは「文句があるならいつでも来い!」というスタンスでした。つねにオープンな姿勢でした。過激な表現に日寄るのは、いつも僕ら広告代理店だったのです。
蓮見さんが新聞広告にこだわった理由、もうひとつは「メッセージ中心であること」でしょうか。
誤解なきように慌ててつけ加えますが、蓮見さんは常に強いビジュアルも求めていました。強く美しいモチーフを常に探していました。けれども、その強さや美しさは、すべてメッセージに寄与することが条件でした。ビジュアルにも、メッセージ性を求めていたのです。
蓮見さんが最後まで動画に興味を示さなかったのは、ムードに流れることを嫌ったからだと思います。画が動き、光が揺らめき、感情的な音楽が流れることで、メッセージにムードが付与されることを嫌ったからだと思います。
ムードではなく、つまりは「なんとなく」ではなく、新聞読者がちゃんとメッセージと出会い、対峙することを望んでいました。
この蓮見さんのメッセージ至上主義を、すべての新聞社に改めて知ってもらいたい。心地良さや気持ち良さではなく、人の知性を訴えることの意義。それができる唯一の媒体である新聞の価値。蓮見さんが最後まで大切にした意義と価値を、新聞社の人にもう一度わかってほしい。僕は勝手に(そして不遜にも)そんなことを思います。
そして新聞広告は、どうなってしまうのだろう
僕は10年以上(!)宝島社の広告に携わってきました。その間新聞広告は、どんどん居場所を失っていきました。はるか昔テレビCMが生まれた時「CMで言い切れないことは新聞で」というポジションに自らの価値を確保したわけですが、それさえもWebに奪われていったのが、この10年くらいの流れでしょう。結果、いま新聞広告には高齢者向けのチラシ表現が増えています。
チラシが悪いとは言いません。それはもちろん立派な広告です。しかしそこには「公共性」「メッセージ主義」という新聞の美徳がフルに活かされているでしょうか。
新聞が持つ美徳を、最後まで大事にし、実践してきたのが宝島社の広告だったと思うのです。それは僕の中で、新聞広告の最後の砦のような存在でした。いや、いたずらにセンチメンタルになり絶望することを、蓮見さんは嫌うかもしれません。けれど、新聞原稿の意義と価値を深く理解し、たったひとりで30段という大舞台を振り回すダイナミックさは、今後誰にも真似できないように思うのです。
個人的な意見を挟ませてもらえば、僕は常々「新聞広告と記事は等価と考えた方がいい」と思っています。新聞が記事と広告でできている以上、新聞を一部買う時、僕らは広告も買っているのです。いい広告は、いい記事と同じくらい、その日の新聞の価値を高めていると思うのです。
もちろんチラシ広告も大事です。「お得な情報」は立派な価値です。けれども、新聞の本質がジャーナリズムだとするならば、企業の社会的姿勢や問題提起をしっかりメッセージする30段の原稿、読者に驚きや共感や反発を呼び起こしてくれる原稿の価値は、良い記事に匹敵するくらい大きいと思うのです。それをたった一人で実践していたのが蓮見さんであったと思います。
「新聞広告はどうなってしまうんだろう」という僕の思いは、上記のような考えから生まれています。蓮見さんという最後の砦を失った今、新聞広告はどうなってゆくでしょうか。「最後とか言うな!」と蓮見さんは笑うかもしれません。怒るかもしれません。そう、確かに新聞というメディアがなくなることはないでしょう。
「メディアは入れ替わらない。それは積み重なる」。マクルーハンの言葉はきっと正しい。けれど、蓮見さんはもういない。その損失はあまりにも大きいと思うのです。
宝島社の企業広告、蓮見さんが考えていたことを、新聞というメディアの視点から記しました。もう2回記事を書かせてもらいます。蓮見さんがいかに社会と(時代と)向き合ってきたか、これまでの原稿を振り返りながら記したいと思っています。
〈つづく〉