企業間競争にプロパガンダを持ち込んだ発明王、トーマス・エジソン

発明家であり、GE(ゼネラル・エレクトリック)の創業者

トーマス・エジソン

トーマス・エジソン(Thomas Alva Edison、1847-1931)

 

トーマス・エジソンは、生涯に1000件以上の特許を申請し、現代の私たちの生活に深く関わる科学技術や産業の発展に貢献した発明家であり、自身が発明した製品や技術の事業化を目指して、多くの企業の設立に関わりました。

その中でも著名なのは、J.P.モルガンから巨額の出資・援助を受けて設立したのが、Edison General Electric Company(現: GE)社です。

エジソンが「発明王」として最も輝いていたのは、GEがニュージャージー州メンロパークに開設した工場での研究実験生活で、その活躍ぶりは「The Wizard of Menlo Park(メンロパークの魔術師)」とも呼ばれていました。この研究所では、自動車王のヘンリー・フォードはじめ、世界中から多くの逸材が働いていました。

 

電流システムの業界標準をめぐる広報合戦を仕掛けた

GEは、エジソンが実用化した白熱電球などの民生家電製品のみならず、発電から送電までを手がける電力事業に力を入れていました。

GEが直流方式の送電システムを考案したのに対して、ジョージ・ウェスティングハウスが設立したウェスティングハウス(WH)社は、エジソンの宿敵とも言われたニコラ・テスラが発明した交流方式で対抗しました。

ジョージ・ウェスティングハウス
(George Westinghouse Jr.、1846-1914)

 

ニコラ・テスラ
(Nikola Tesla、1856-1943)

 

テスラは、1884年の渡米後、しばらくしてエジソンが創業したエジソン電灯会社の求人に応募し、技術者として働いていました。

同社は、直流による電力事業を展開していましたが、テスラは交流による電力事業を提案したため、エジソンと対立してその後退社、1887年に自身の会社「Tesla Electric Light Company(テスラ電灯社)」を設立し、独自に交流による電力事業を推進すると共に、交流システムの特許を出願します。

1880年代から90年代にかけて、電流システムの業界標準をめぐるGE社とWH社(事実上はエジソンとテスラ)の確執は、「電流戦争(War of Currents)」と言われています。前述したように、テスラは一時期エジソンンの元で働いていましたが、ある仕打ちを受けてGEを辞め、交流方式に関する自身の特許をWHに売って、エジソンに立ち向かいました。

 

ウェスティングハウスにプロパガンダに近い手法で対抗

直流方式に絶対の自信を持っていたエジソンは、彼の秘書として仕え、後にシカゴを中心にアメリカ最大の電力事業を築いたサミュエル・インサルと共に、WHの交流方式を徹底的に叩く広報活動を始めました。

GEは、WHを数多くの特許侵害で訴えるのをはじめ、世論に対しては動物実験や電気イスの死刑執行と交流方式の危険性を関連付けた、プロパガンダ的なパブリシティを行いました。

さらにエジソンは、処刑されることを「ウェスティングハウスされる」と呼ぶよう働きかけていたと言われていますが、その真意は分かりません。

一方WHも、ピッツバーグの元新聞記者であるアーネスト・ハインリッヒを1888年に広報担当として採用し、翌1889年にはアメリカ企業として初の広報部門を設立しています。ハインリッヒは、交流方式の安全性やGEの間違った情報を正すために、同社の公式見解を連日メディアに提供しました。

たとえば、交流電気を放電している場でテスラ自身が読書をするショーを行い、交流の安全性や無害化の容易さを主張するパフォーマンスも行われています。1889~1890年は、両社の確執が最高潮に達していたころで、ニューヨーク・タイムズなどの新聞に両社に関する記事が出ない日はなかったほどです。

交流システムの実験場で、その安全性(人畜無害)を証明する読書パフォーマンスをするニコラ・テスラ
交流システムの実験場で、その安全性(人畜無害)を証明する読書パフォーマンスをするニコラ・テスラ。

エジソンは、自分が選択・採用した直流送電にこだわるあまり、交流送電の優位を受け入れることができなかったのですが、両社は1893年に特許の相互利用のために話し合いを始めました。結局、1896年にナイアガラの滝に設置された水力発電所に交流方式が採用されたことで、この戦いは交流方式の勝利に終わりました。

企業同士が広報合戦を繰り広げた「電流戦争」は、GEのプロパガンダともいえるパブリシティに対して、正攻法で世論に訴え続けたWHの企業広報の勝利ともいえるでしょう。

ちなみに、エジソンは米『ライフ』誌が1999年に発表した「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」において、第1位に選出されています。

彼の偉大な業績を称えるために、1929年10月21日にミシガン州で開かれた「光の50周年記念祭」(通称:白熱電球発明50周年式典)は、当時のハーバード・フーバー米大統領はじめ金融・産業界の大物たちが出席し、盛大に執り行われました。なお、このイベントは本コラムの第2回で紹介したエドワード・バーネイズが取り仕切ったものでした。

 


広報豆知識(Public Relations Tips)~普段使っている専門用語の由来を知る

ブリーフィング(Briefing)

ブリーフィング(Briefing)とは、特定の目的や目標を達成するために、情報を提供し説明することで、レクチャーともいう。メディアブリーフィングは、企業や組織が報道関係者(メディア)に対して行う、特定のトピックスやイベントに関する情報提供ならびに説明のこと。通常、企業の広報担当者や専門家がメディアブリーフィングを主導し、メディアに最新の情報や製品に関する詳細を提供する。

メディアブリーフィングの目的は、メディアに対して情報を提供し、企業や組織のメッセージを伝えることで、広報やマーケティング戦略の一環として行われる。企業や団体によって、メディアブリーフィングを定期的に開催することもあれば、特定のトピックスに関連して単発的に開催する場合がある。

また、メディアブリーフィングの開催者には、公正・正確でオープンな形式での情報提供が求められ、「情報の隠蔽や操作」「敵対的な態度」「偏見や主観的な情報提供」「情報の確認不足」「メディア関係者の尊重不足」のような行為や態度は慎まなければならない。

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河西 仁(ミアキス・アソシエイツ 代表)
河西 仁(ミアキス・アソシエイツ 代表)

かさい・ひとし/ミアキス・アソシエイツ 代表、英パブリテック日本代表。10年にわたる外資系メーカーでの国内広報宣伝部門責任者を経て、1998年8月より広報コンサルタントとして独立。以来、延べ120社以上の外資系IT企業をはじめ、ITベンチャー各社の広報業務の企画実践に関するコンサルティング業務に携わる。メーカーでの広報担当時代(1989年~)から現在まで、自身で作成・校正を手がけたプレスリリースは、2400本を超えた(2023年10月31日現在: 2421本)。東京経済大学大学院コミュニケーション学研究科修士課程修了(コミュニケーション学)。日本広報学会会員。米IABC(International Association of Business Communications)会員。著書に『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』(同友館)。

河西 仁(ミアキス・アソシエイツ 代表)

かさい・ひとし/ミアキス・アソシエイツ 代表、英パブリテック日本代表。10年にわたる外資系メーカーでの国内広報宣伝部門責任者を経て、1998年8月より広報コンサルタントとして独立。以来、延べ120社以上の外資系IT企業をはじめ、ITベンチャー各社の広報業務の企画実践に関するコンサルティング業務に携わる。メーカーでの広報担当時代(1989年~)から現在まで、自身で作成・校正を手がけたプレスリリースは、2400本を超えた(2023年10月31日現在: 2421本)。東京経済大学大学院コミュニケーション学研究科修士課程修了(コミュニケーション学)。日本広報学会会員。米IABC(International Association of Business Communications)会員。著書に『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』(同友館)。

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