【前回コラム】俳優の仕事は、チームが作り上げた台本を全力で表現すること(岡山天音)【後編】
今回の登場人物紹介
※本記事は2023年12月17日放送分の内容をダイジェスト収録したものです。
祝・「すぐおわ」の放送がついに500回に!
澤本:皆さんこんばんは。CMプランナーの澤本です。
権八:こんばんは〜。CMプランナーの権八です。
中村:こんばんは。Web野郎こと中村洋基です。ちょっと軽く喉やられてまして。
澤本:はい。
権八:大丈夫?お酒?
中村:違います違います。いい年になると無意味に喉が枯れてくるっていう。体調は全然大丈夫なんですけどね。
権八:加齢で喉が。でも治るんでしょ?
中村:治ります。治りますし、今も声優仕様の飴みたいなのを舐めてます。
澤本:それちょうだい。僕も喉が痛いんで。
中村:はい、じゃあ差し上げます。
澤本:ありがとうございます。
中村:あ!なんと。この番組、記念すべき500回目の放送です。
澤本:今日?
中村:はい。ゲストの方に指摘いただいて気づきましたけど。
澤本:本当だ。
中村:すごいっすね、何気に。500回って。番組来年10周年になると。
権八:何百回記念みたいなのって、節目節目にこれまで何かやってきたんでしたっけ。
澤本:ないです。
権八:やってこなかったですよね。やらない主義なんですね。
中村:普通こういうのって、ディレクターとかがケーキを持ってきたりとか。
権八:さっきゲストの方にご指摘いただくまで気付かなかったからね。
中村:そうですね。終わる終わると言って終わらずに、終わる終わる詐欺で。それで皆さん、最近のお仕事はいかがですか?
権八:アンミカさんの『どん兵衛』のCMがネットで話題になって。アンミカさんの出自を揶揄するような投稿がバズって、それに対して「そうじゃないだろー!」みたいな感じで。ほんと彼女に対してひどい話で。
澤本:へえ、知らなかった。
権八:あれ?
澤本:ごめんごめん、世俗に疎くて。
権八:じゃあこの話なかったことに。
全員:あはは。
権八:全然盛り上がんないごめん(笑)。
21歳の木村拓哉さんに、2秒でノックアウトされた
中村:はい。というわけで、今夜も素敵なゲストにお越しいただいております。「すぐおわ」には約3年ぶり2回目のご登場。今話題の人・放送作家の鈴木おさむさんです。よろしくお願いします。
鈴木:どうも。前回はコロナ禍だったからリモート参加だったんですよ。スタジオははじめて来ました。
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中村:おさむさんといえば、Xを中心に賑わっている謎の引退宣言とかがありまして。
権八:謎の引退宣言(笑)。
中村:それ言った時点で謎じゃないんだけど、根掘り葉掘り聞きたいなと思ってます。そもそもおさむさんは、TOKYO FMで長年パーソナリティをやってますよね。
鈴木:そうですね。もう20年ぐらいやってます。なんだかんだで20年。
中村:うちの500回どころじゃないですね。
鈴木:いろいろ形を変えながらも金曜日に20年ぐらいやらせていただいて。
中村:先日久しぶりにリスナーから番組にお便りが来たと思ったら「おさむさんをゲストに出せ」というラブコールでした。みんなおさむさんの話を聞きたいんですよね、ほんとに。
鈴木:ありがとうございます。
権八:どんなことを考えて引退宣言をされたのか、3月以降の話も話せる範囲でぜひ。
鈴木:もちろんです。
中村:いろいろ聞きたいんですが、まず毎回ゲストの方にお願いしている「20秒自己紹介」をお願いできればと思います。この「すぐおわ」は広告の番組ということで、ご自身の自己紹介をラジオCMの尺20秒に合わせてやってくださいませ、というコーナーです。では、いきます。どうぞ。
鈴木:放送作家の鈴木おさむと申します。1972年生まれ、アンミカと同い年でございます。放送作家を19歳の頃に始めて32年目でございます。今までいろんな番組をやってきました『SMAP×SMAP』(フジテレビ・関西テレビ、1996年〜2016年)も20年、最初から最後までやってまいりました。
権八:まだまだ続きがあろうという感じで。
鈴木:そうですね。ちょうど木村拓哉くんと出会ったのが、実はこのスタジオなんですよ。21歳のときかな。
ここで、ラジオの1回目の収録をしたんです。まだ「キムタク」って呼ばれる前でした。そのラジオがきっかけで、96年からテレビ番組『SMAP×SMAP』が始まると。始まった当時は中居(正広)くんも木村くんも僕も23歳ですね。僕は4月生まれなんで、すぐ24歳になったんですけど、それから丸々20年『SMAP×SMAP』という番組とSMAPのお仕事をずっとやってきたという。輝いてました、最初に会ったときから。
中村:木村さんは輝いていた。
鈴木:はい。そこの窓際でこうやって手をついていて。僕も同い年で、負けたくなかったんです。SMAPはその前に『夢がMORI MORI』(フジテレビ、1992年〜1995年)って番組をやってたんですよ。
権八:やってましたね。
鈴木:僕、あの番組がすごい嫌いで。
全員:あははは!
鈴木:『夢で逢えたら』っていう、ダウンタウンさんとウッチャンナンチャンさんが出てた番組があって、それが僕はこの業界に入ったきっかけでした。「ああいう番組を作りたい」と思って入って、そしたらあの番組が終わって、何が始まるのかなと思ったら、森脇(健児)さんと森口(博子)さんと、アイドル……!?みたいな感じで。「キックベースとかやりやがって」とか思って。若かったから、ちょっと尖ってたんですね。
彼と出会った時、最初に「どうも木村です」、「どうも鈴木おさむです。同い年なんですよ」って言って、そのまま「俺『夢MORI』嫌いなんだよね」って言ったんですよ。そしたら、「俺も」って右手を出してきたんですよ(笑)。
中村:おお〜〜。
権八:そうなんだ。
鈴木:そっから仲良くなりました。2秒で掴まれました。
全員:あはははは。
澤本:かっこいい。
鈴木:かっこいいっす。
中村:それは一種の賭けだったんですか。
鈴木:「ちょっとかましてやろう」ってのもあったんですけど、「男が聴く番組やってやろう」みたいな。「舐めんじゃねえぞ」みたいな感じがあって、言ったら2秒でマウント取られました。
全員:はははは!
鈴木:さすがですよね。そこが出会いでした。そこから最初は6人でしたけど、森(且行)くんが抜けちゃって、5人のお仕事でずっとやってきたって感じですかね。
『SMAP×SMAP』は96年の4月に始まったんですけど、初回放送日にちょうど木村くんの『ロングバケーション』(フジテレビ、1996年)も始まって。9時から『ロングバケーション』、10時から『SMAP×SMAP』が放送されてました。その当時って、アイドルがゴールデンとかプライム帯で番組の司会をすることはなかったんですよ。その前に『愛ラブSMAP!』(テレビ東京、1991年〜1996年)って番組もあったけど、それは視聴率5%もいかない番組だったから。
今でもすごい覚えてるんですけど、番組が始まる一週間くらい前に、とある事務所の人に「いくら勢いがあるからって言ったって、そりゃ無理だよ」って、テレビ舐めんなよって感じで言われたんですよ。世の中本当にみんなそう思ってたし、自分でも「無理だろう」と思ってたら、ドラマと一緒にしたのもあって、初回でいきなり20%の視聴率で。あれがテレビ史を良くも悪くも変えたと思ってます。
権八:ほう。悪くもっていうのは?
鈴木:悪くもっていうのは、男性アイドルも視聴率を取れるとわかったということです。それまでアイドルって、歌番組はいいけど、司会や冠番組をさせたってテレビの視聴率を取れるわけないって思われてて。でも彼らが数字を取ったことによって、その半年後から同じ事務所の人たちの番組が一斉に始まったんですよ。それによってゴールデン帯、深夜もその事務所のアイドルたちがやるようになって、しかもそれで成功していくじゃないですか。
権八:はい。
鈴木:今まで芸人さんや司会者のものだったのが、男性アイドルの枠が増えていったんです。それによって、男性アイドルがテレビ界においてワーッと枠と力を持っていったと。その歴史が2023年に変わったということじゃないですか。だからとんでもない歴史的な年だし、SMAPが作り上げたものは素晴らしい一方で、それによってテレビやテレビ局が変わってしまったってところもあるし。時代の節目のすごい年だなと思って見てました。
飯島さんは、常に緊張感あるプロデュースをする人だった
中村:『SMAP×SMAP』の放送作家に抜擢されるって実はすごいことなんですよね、そもそも。
鈴木:当時23歳で抜擢されました。それまで、僕は木村くんとTOKYO FMのラジオでコントをやってたんですね。古畑任三郎や松田優作の真似とか。のちに『SMAP×SMAP』でもやることを、ラジオでもうしてたんですよ。それで、木村くんと飯島(三智)さんに声をかけられて。『SMAP×SMAP』をやるってなったときも自信があって、6人いる放送作家のうち一番下っ端だったんですけど、若くてイタい頃だったので自分が一番面白いと思ってました。木村くんを使っての古畑のパロディをするコントの「台本を書いてくれ」と言われた時も、ご機嫌で書いて、後からコンペだったって知ってめっちゃ腹立てたり。
全員:あはは。
鈴木:けど、番組プロデューサーの荒井(昭博)さんが23歳の僕の台本を選んでくれてですね。「やっぱ木村のことをよくわかってるからこれで行こう」って言ってくれて、そのおかげで僕にコントを発注するっていう流れができたんですよ。若い人にチャンスを与えるって大変じゃないですか。だからすごいなと思います。
権八:前におさむさんに言ったかもしれないけど、僕は97年に就職活動していて、フジテレビさんにご縁をいただいて。まさに、その荒井さんが内定者向けにお話してくれたことがあって。『SMAP×SMAP』始まって1年だからものすごいイケイケですよね。
鈴木:そうですね。
権八:そのときに荒井さんがおっしゃったのが「自分は要するにタレントさんがどれだけ自由にキラキラ輝ける場を作れるかを考えているんだ」と。「いかにして気持ちよくみんなが遊べる場を作れるかが自分の仕事なんだ」とおっしゃっていて。僕はそれを聞いて「それは自分の仕事なのかな」と思っちゃったのね。そのときは放送作家って職業も知らなかったから、知ってたらまた違った生き方があったかもしれないですね。で、そのあといろいろあって、フジテレビさんの就職は辞退させていただいたんです。実は僕、学生時代の97年にやっぱり中居くんと出会っていて、卒業後は入社早々、飯島さんにも出会ってしまって。でもおさむさんとは近いところにいながらずっと交わることなく、『72時間ホンネテレビ』(AbemaTV、2017年)で初めて出会いましたよね。
鈴木:SMAPのマネージャーだった飯島(三智)さんって、面白い仕事の仕方をする人なんです。他のアーティストを見てると、周りにいる人がみんな仲良くなってるんですよ。だけど飯島さんって、CMやる人、バラエティやる人、ドラマやる人、音楽やる人って交わらせないですよね。僕は、たぶん飯島さんは計算してそれをやってたと思う。みんな仲良くなって何度もチームを組むと、緊張感がなくなってしまうから。
だから、あの頃アルバムの歌詞も書いたりしてたのに、1回も佐藤可士和さんに会ったことないんですよ。
権八:え、今も?
鈴木:今もですよ。あんなにSMAPの歌詞やってたら会ってそうじゃないですか?でもSMAPって商品に対してそれぞれの分野のプロがいて、たぶんそこが馴染むと、なあなあになると思ったんじゃないのかな。どこまで計算してたかわからないですけど、そこにおいての緊張感をめちゃくちゃ持ってプロデュースしてたのが、飯島さんの一番すごいところだと僕は思います。権八さんもこんなにSMAPのCMをいろいろやってたのに、『72時間ホンネテレビ』でようやくちゃんと会えたっていう。
権八:あれが最初ですね。
鈴木:この「会わない」プロデュースが僕はめちゃくちゃ面白いなと思ってます。
権八:確かにそう。澤本さん気づいてました?
鈴木:澤本さんも、2000年ぐらいからですか?SMAPと関わってたのって。
澤本:そうですね。2000年ぐらい。
今、鈴木おさむが放送作家を離れる理由
鈴木:僕は、1996年の『SMAP×SMAP』が始まってからのとんでもない勢い、もう本当に勢いが出た瞬間をずっと見られたから、面白かったですね。まず木村くんのドラマが当たって、番組も当たるじゃないですか。その後に(草彅)剛のドラマがあって。みんなドラマで活躍してたんだけど、当時剛だけはドラマでまだ活躍しきれてなかったんですね。
権八:え、そうだったんだ。
鈴木:なんですけど、その後に、また飯島さんがうまいんです。剛を『いいひと。』(フジテレビ、1997年)ってドラマに出すんですけど、「一生に一度の主役です」って、今思えばそんなわけないだろうってキャッチコピーをつけて、一生に一回しか彼は主役ができませんよっていう天才的なプロデュースをして、彼がバコンと当たるんですね。
SMAPって普段そんなに仲良しな感じを見せないグループなのに、剛がドラマやるってなったら「行け行け行け!」みたいに押していく空気がすごかったです。あと歌も、ヒット曲はたくさん出てたけど、『夜空のムコウ』(1998年)、あれがはじめてのミリオンになって、たぶんあのヒットによって彼らはアイドルからアーティストになるわけです。
権八:なるほど。
鈴木:1997年の大晦日に『SMAP×SMAP』で年越しのカウントダウン番組をやることになったんですけど、リーダーがその時はじめて、わずか25歳で紅白の司会を務めることになってて。だから彼が終わって渋谷から車とバイクで移動するっていう流れで、フジテレビでは珍しく木村拓哉くんが司会をして、「10万個のドミノ」企画が終わる頃に到着して、『夜空のムコウ』をたしかはじめてテレビで生歌唱するはずだったんです。でも渋滞で本当に間に合わなかったんですよ。ドミノが倒れたときにも間に合わなくて。「しょうがない、4人で歌うしかない」って4人で歌ったんですよ。で、4人で歌い出して、そしたら一番が終わって、間奏でバイク着いたんですよ。
それで本当にメンバーが嬉しそうな顔して、パッてリーダーが降りた瞬間に(香取)慎吾がマイクを渡して、2番のところからドーンと5人で歌ったんですよね。
権八:かっこい〜。
鈴木:この感じのドキュメンタリー、奇跡じゃないですか。それが結果27%とかで。それだけの数の人がその物語も含めて聴くってすごい宣伝じゃないですか。あの曲はたぶん、その物語も含めて年明けに発売してミリオンいったんです。そういう奇跡も含めて、スターになっていく過程とスターになるべくしてなる人を見れたのが、すごくよかったですね。
だから何で放送作家を辞めるのかって言ったら、いろいろ理由はあるし、すごくありがたい仕事をいっぱいさせてもらってるんですけど、2016年にSMAPが解散したのは大きいですよね。
彼らとやるときって、奇跡の可能性が1%を超すんですよ。99%作ったら奇跡の余地を残して、奇跡が起きると150%ぐらいになるんです。もちろん起きないときもあるんですよ。起きないときもあるんだけど、起きる時もあって。
ラスト1分前に木村拓哉がボーリングでストライクを出したりとか、中居がギリギリに来たりとか、そういう奇跡が起こることによって絶対的な爆発力があった。だから彼らと番組を作るときには1%の奇跡を残してやってたんですよね。
彼らが解散してからもいろんな番組やってきて、たまにそういう作りもするんですけどやっぱそれが通用しないことに気づいて。自分のなかでの寂しさっていうか、空虚な感じがあったんです。このままやろうと思えばできますし、来年も世界一を狙おうと作ったドラマがNetflixで公開されますけど、仮にそれが世界一を取ったとしても、この空虚さはたぶん無くならないだろうなって思ったんで、辞めるって決断をしました。
中村:奇跡を頻繁に起こせるSMAPのような人は、やっぱりなかなかいないという。
鈴木:なかなかいないというか、いなかった。SMAPは芸人じゃないので、枠を与えていかにぶち壊すか、超えていくかって感じですね。それが彼らにはあったんですけど、なんかそこが、うん。27時間テレビを、2014年に最後少しお手伝いしてもらいましたけど。
権八:番宣全般とか、LIVE終了時の長いナレーションとか書かせていただきました、はい。
鈴木:あの時5000人呼んでライブやったんですよ。で、あの頃けっこう雷の事故が起きていて、ちょっとでも雷が起きたら駄目っていう状態だったんですね。もし雨が降ったり雷があったら、スタジオでやることになってたんですよ。全然雰囲気が違うけどしょうがないと。しかもその時台風が来てて、それがまたすごいんですけど、飯島さんが知り合いの知り合いに頼んで、天気予報に相当詳しい人を呼んで、27時間テレビの生放送中に、その人が横でずっと天気を調べてるんですよ。
全員:あはは。
鈴木:で、飯島さんが怒りながら「天気はどうなってんの!」って(笑)。天気だからしょうがないじゃないですか。なんですけど、飯島さんもカリカリしてて「どうして!?」みたいな。どうしてって言われても天気だし、みたいな感じが続いて、結局「台風だし無理だ」という話になった。それが、翌日昼ぐらいからちょっとずつ雲が動いてきて。で、夕方にそのコーナーが始まる直前に雲がなくなって。飯島さんの掛け声で「今だー!」って。
全員:あははは!
鈴木:で、セットを全部動かして、ライブ会場もスタジオにいたお客さん全員動かして、それでライブを外でできたんですけど、そんなのって、天気図にも出てないじゃないですか。台風だって言ってんのに。あの時に中居くんが「絶対今まで人が作れなかったものを作りたい」って言ってたんですけど、やっぱ彼らには神様も味方して、人が作ったことないものを作ってたんで、テレビの上では、もうああいう興奮とかテンションを超えることはないだろうっていうのが本音ですかね。
中村:そんなことが起きてたんだ。漫画に出てくるアイドルの話みたい。
鈴木:本当にそうです。漫画みたいなことがめちゃくちゃ起きるんですよね。だから作り手としてもやりがいあるし、そういう奇跡を起こしてこれたって。マイケル・ジャクソンが来たときも、決まったのは当日だし。SMAPには「LEDの故障だ」って言って待たせてたんです。で、時間が2時間近く押してどんどんメンバーの機嫌が悪くなって、「どんだけ馬鹿なスタッフなんだ」って思ったと思うんだけど、本当の直前でようやくマイケルがOKしてくれて。そういうのってドキドキするじゃないですか。そういう興奮やアドレナリンが出るものをやってたから。
権八:しかもマイケル来るまでずっと歌を歌って待ってたでしょ。
鈴木:歌って待ってて、「LEDの故障」だって言って。でも実は、当日あの収録が始まってから、裏でまだギャラ交渉してますからね。
権八:その時歌ってたのが『buzzer beater』(2006年)という、申し訳ないんですけど、僕が書いた歌で。
鈴木:何回もね。何回も何回も。
権八:申し訳ない。
鈴木:何回も申し訳ないけど、何回もそれを歌って怒るみたいな。
権八:めっちゃ怒ってるわけ。
澤本:あはは。
鈴木:そんな奇跡と共にやってきて、このまま続けてもいいんですけど、51歳になって何か新しいことをやれる最後のチャンスかなって。テレビの方も、視聴率が崩壊してきて、TVerができて、だいぶ変わってきた。そういう中で50歳以上の作り手でしんどく感じてる人って結構いるんですよ。仕事なくなったり。なので、自分が今テレビを離れるって宣言して、何か別のことでうまくいったり成功したりすると、希望になるかなとも思って。みんな力があるんだから、他のこともやりながらテレビをやったら、もっと俯瞰的に色んなことができるんじゃないかって。それをメッセージとして送っているんです。
<次回につづく>