「エクストリーム就職相談 ~世界で活躍する日本人クリエイティブに聞け!~」第6回に登場していただくのは、オーストラリア・ブリスベン在住のエグゼクティブ・プロデューサー、高田健さんです。共同創業者として立ち上げた「Alt.vfx」は、オーストラリア、アジアのみならず、世界を牽引するVFXスタジオで、アカデミー賞をはじめ、名だたるアワードを受賞した映画やドラマ、広告などに携わっています。現在は技術領域をさらに拡大し、AI/VR/ARコンテンツ、バーチャルプロダクションも数多く制作しています。どのようにして創業メンバー6名から社員70名のグローバル・カンパニーに育てたのか。映像や広告業界の「海外」というと欧米諸国が連想されることが多い中、オーストラリアだからこそ培うことができたグローバルな視点とは。
高田健(TAKESHI TAKADA)さん
職業:エグゼクティブ・プロデューサー、ファウンダー
拠点:ブリスベン、オーストラリア
移民向けの英語学校で身についたグローバル感とハングリーさ
――あらためまして、タケシさんのご職業について教えてください。
VFXスタジオ「Alt.vfx」のエグゼクティブ・プロデューサーです。2011年に共同創立者としてオーストラリアのブリスベンでAlt.vfxを立ち上げました。今はシドニー、メルボルン、北米のロサンゼルスと東京にオフィス/スタジオがあります。
Alt.vfxのシドニーオフィス
――タケシさんは日本生まれですが、オーストラリアに渡ったきっかけは何だったのでしょうか?
日本にいる時から父親の仕事の都合で国内転勤は多かったのですが、12歳のときにオーストラリアのブリスベンに引っ越すことになりました。
父の仕事は「ランドスケープ・アーキテクト (Landscape Architect)」で、造園とか空間デザインやプランニングの仕事です。ちょうど日本はバブル絶頂期でした。様々な日本の会社やブランドが海外展開を模索している中、父親の会社もリゾートやゴルフ場の開発に携わる海外支社をつくろうということで、家族で父についていきました。
私は小学校を卒業してすぐブリスベンに渡ったので、半年ぐらい移民向けの英語学校に通い、集中的に英語を勉強しました。その学校には移民や難民の子供が多く、ベトナムから命懸けで海を渡ってきた「ボート・ピープル」と呼ばれる難民の子や、エルサルバドルの内戦から逃れてきた子、ユーゴスラビアの子もいました。その中にごく「普通」の日本の家庭で育った自分が飛び込んだのは、大きな変化でした……。お昼休みの時間にエルサルバドル人とベトナム人の子どもたちの喧嘩が始まるんですよ。まだみんな英語力が乏しくて話し合いとかできないから、ナイフが出てきたこともあったり(笑)。
―12歳のときに、いきなり環境がガラリと変わったわけですね。
「世の中には自分とはこんなに違う価値観や育ちの人たちがいるんだ」という、それまで自分が知っていた常識が覆されましたね。多民族国家であるオーストラリア特有の環境にいたから、グローバルな感覚が自然と身についたのかもしれません。あと「やるかやられるか」じゃないですけど(笑)、そういうハングリーさが、その時に自分の中で芽生えた気がします。
―その後、中学高校は現地の進学校に通い、大学もブリスベンですよね。大学卒業後、いったん日本に戻られたことに驚きました。
はい、大学はブリスベンのグリフィス大学というところに行きました。学生生活はずっとオーストラリアで過ごしたので、日本でどれだけ自分が通用するのか、一度ぶつけてみたいという想いがありました。そして、どこか日本に対する憧れがあったんだと思います。
―日本で就職することになったきっかけは?
今でこそ沢山いますが、自分が学生だった頃はバイリンガルな人は稀で重宝されました。その頃、日本とオーストラリアでは人の行き来が活発で、旅行者だけではなく、会社の経営者や商社マンの出入りが多かったんです。そういう経営者の人たちのゴルフや釣りのアテンドに同行させてもらい、そこで勇気づけられたり、たくさんの刺激をいただきました。
中でもある経営者の方に気に入っていただき、卒業後はその方の会社に入社しました。そこはIT系の会社で、最初の配属は「経営企画室・新規事業開発」という部署。3年の間に、主に新規事業の立ち上げなどに携わりました。その会社は電通関連会社の情報処理とシステム開発に携わっていて、その流れで電通の方々ともお仕事することになり、次第に広告業界に憧れを抱くようになりました。
―日本で就職された当時、カルチャーショックはありましたか?
海外で育った人あるあるですが、自分が日本人なのかオーストラリア人なのか分からなくなったこともありましたね。特に、就職したてのサラリーマン生活は正直、試行錯誤の毎日でした。
六畳もないようなアパートに住んでいましたし、思い描いていた日本での生活とは全然違いました…。けれど憧れていた地で、どこまで自分が通用するのか試してみたいという想いのほうが強かったです。20代は、とにかく働きましたね。
―日本では何度か転職もされていますね。
もともと飽きっぽい性格で、なにより同じことを二度したくなかった。どこまで飛躍できるか試したかったんですね。絶対いつかは起業したいという想いがあったので、自分をステップアップするにはどうすればいいのか、常に考えていました。それは環境と周りの人々から自分がどれだけ吸収できるかだと思うので、同じ場所にはとどまりたくなかったんです。
―それからどのようにして広告の仕事に携わるように?
最初に就職したところがIT系の会社だったこともあり、ITやPR系の会社で何社か働かせてもらいました。外資系の広告会社の国際部、PR部門、NECの子会社の広告会社、三井物産のIT事業本部への出向など。30歳になったとき、働いていた会社から「上海支店を作るので中国に行かないか」という話をもらいました。同時にオーストラリアのポストプロダクション会社「Cutting Edge(カッティングエッジ)」からお話もいただきました。迷いましたが、もともとクリエイティブなことが大好きでしたし、自分の英語力をもっと活かしたいという気持ちから後者を選び、オーストラリアに戻ることを決意しました。
―オーストラリアに戻りたい気持ちはずっとどこかでありましたか?
最初に日本で就職をするためにブリスベンを旅立った日のこと、今でも鮮明に覚えています。成田行きの飛行機に乗り、上空からオーストラリア本土が窓越しに見えた時「いつかこの国に戻ってきて、ちゃんと恩返しするんだ」と、自分の中で決めていました。やはりオーストラリアが好きなんですよね。
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