映画『市民ケーン』のモデルとなった、20世紀のメディア王――ウィリアム・ハースト

ピュリッツァーと繰り広げた、過激な新聞販売合戦

写真 人物 ウィリアム・ランドルフ・ハースト

ウィリアム・ランドルフ・ハースト(William Randolph Hearst、1863-1951)

ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、アメリカの現代メディア・エンタープライズのパイオニアの一人であり、特に19世紀末から20世紀初頭のアメリカにおいて、大活躍した新聞王として知られています。

ハーストの父親は、ゴールドラッシュ時代にカリフォルニア州で銀鉱山を掘り当てた後、新聞社を始め数々の事業で成功を収めました。裕福な家庭に生まれたハーストは、ハーバード大学に進学しましたが、学業より副業に打ち込みすぎて、最終的には退学を余儀なくされました。その後、24歳で父親から『サンフランシスコ・エグザミナー』紙の経営を引き継ぎ、新聞事業を始めました。

ハーストは、その後の2年間で同紙を西海岸有数の新聞に育てあげ、さらに野心に燃える彼は経営不振に陥っていた『ニューヨーク・モーニング・ジャーナル』紙(後の『ニューヨーク・ジャーナル』)を買収し、ニューヨークに進出しました。

ここから、ジョセフ・ピュリッツァーが所有する『ニューヨーク・ワールド』紙との過激な販売合戦が始まりました。

「イエロージャーナリズム」と呼ばれる、センセーショナルな報道手法を取り入れた派手な販売合戦は、19世紀末から20世紀初頭のニューヨークを舞台に、ハーストとジョセフ・ピュリッツァーが巻き起こしたものでした。

ハーストはピュリッツァーに追いつくため、『ニューヨーク・ワールド』の記者や編集者を引き抜くなどの手法を取って、積極的に競争しました。これに対して、ピュリッツァーも対抗するためにあらゆる手を尽くしました。

「私が戦争を起こすから、あなたは絵を提供してください」

2人の手法は新聞の販売部数を飛躍的に増加させましたが、一方でジャーナリズムの質や倫理についての批判も招きました。特に1898年の米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)は、ハーストとピュリッツァーの新聞が戦争を煽ったとの批判があり、その影響力が問題視されました。

グラフィック ハーストが発行した『ニューヨーク・ジャーナル』紙

ハーストが発行した『ニューヨーク・ジャーナル』紙。

米西戦争は、1898年にアメリカとスペインの間で行われた戦争で、主にキューバの独立問題をめぐる対立が原因でした。アメリカ国内では、スペインの支配下にあるキューバでの人道的な問題に対する関心が高まり、スペインに対する反感が強まっていました。

ハーストの『ニューヨーク・ジャーナル』は、スペインの支配に対するキューバの反乱やスペイン軍の残虐行為に関するセンセーショナルな報道を行いました。これにより、アメリカ国民の間でスペインに対する反感が増幅されました。

この戦争において、伝説的なエピソードがあります。ハーストは有名なイラストレーター、フレデリック・レミントンをキューバに派遣しました。レミントンが「戦争が起きそうにないから絵が描けない」と報告した際、ハーストは「私が戦争を起こすから、あなたは絵を提供してください」と答えたと言われています。この逸話は、ハーストの報道方針を象徴するものとして広く知られています。

ハーストの編集方針は、事実の歪曲や誇張が含まれており、ジャーナリズムの倫理に対する議論を引き起こし、新聞が戦争を煽動したとまで非難されました。

その一方で、ハーストの報道がアメリカの外交政策や国民の意識に与えた影響力は計り知れません。彼の新聞は、大衆の関心を引きつけ、世論を動かす力を持っていたことは確かです。

独裁的な新聞王の孤独を描いた『市民ケーン』

ハーストは、実業家でありながら、政治にも深く関与し、民主党の一員としてニューヨーク市長選やニューヨーク州知事選などに出馬し、米国下院議員も務めました。

1930年代には、ナチス・ドイツにも大いなる関心を抱き、自社の新聞販売拡大のため、アドルフ・ヒトラーを利用しようと、ヒトラー本人と面会もしました。しかし、この面会が問題視されたことから、ハーストは自ら事態収拾に追われるなど、なりふり構わない彼の販売姿勢は最後まで変わらなかったようです。

オーソン・ウェルズの映画『市民ケーン』(1941年)は、ハーストをモデルにしたといわれています。映画では、独裁的な新聞王の孤独だった生涯を描き、ハーストの人生や影響力を批判的に描写しており、彼の評判に影響を与えました。

写真 人物 1941年に公開されたオーソン・ウェルズの監督デビュー作『市民ケーン』。世界映画史上、最高傑作のひとつとして高く評価されている。ウェルズは監督のほかにプロデュース・主演・共同脚本も務めた。

1941年に公開されたオーソン・ウェルズの監督デビュー作『市民ケーン』。世界映画史上、最高傑作のひとつとして高く評価されている。ウェルズは監督のほかにプロデュース・主演・共同脚本も務めた。

ハーストは1951年にカリフォルニア州ビバリーヒルズで亡くなりました。彼の死後も、ハースト・コーポレーションは存続し、今日でも大手メディア企業として活動しています。

日本では婦人画報社が2011年以降、ハースト社の傘下として活動しています。ハーストのメディア王としての影響力は、20世紀初頭のアメリカの政治、文化、社会に大きな影響を与えました。彼のメディア帝国は、その後のメディア業界の発展にも多大な影響を及ぼしました。


広報豆知識(Public Relations Tips)~普段使っている専門用語の由来を知る

ABC

ABC (Audit, Bureau, Circulation)機構は、公正で透明性のある広告取引を行うことを目的に、1914年、世界で初めてアメリカで設立された。

日本では、広告主・広告会社の熱心な部数公開の要請と、発行社の積極的な協力により、1952年に発行社、広告主、広告会社の三者による共同機関として、前身であるABC懇談会が設立され、1955年に日本ABC協会と改称した。

1963年にはABCの国際機関として国際ABC連盟(IFABC)が設立され、現在、ABCは28カ国に拠点がある(出所: 日本ABC協会Webサイト)。

日本ABC協会の主要な活動は次のとおり。

  • 発行部数の監査: JABCは、加盟メディアの発行部数を定期的に監査し、認証を行っている。この監査は独立した第三者機関として行われ、データの信頼性を確保している。
  • データの公開: 監査結果は公開され、広告主や広告代理店が参照できるようになっている。これにより、広告取引において透明性が確保される。
  • 調査研究: メディア市場や広告市場に関する調査研究を行い、業界の発展に寄与している。

ABCに加盟しているメディアには、新聞(全国紙、地方紙、専門紙など)、雑誌(一般誌、専門誌、フリーペーパー)があるほか、最近では、Webサイトや電子版の発行部数の認証も行っている。

日本ABC協会(JABC)は、メディアの発行部数を監査・認証することで、広告市場の信頼性と透明性を確保し、広告主やメディア業界全体の発展に貢献している。ABCの提供する情報は、広告主にとっては、信頼できるデータに基づいて広告戦略を立てるための重要な情報源となっている。

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河西 仁(ミアキス・アソシエイツ 代表)
河西 仁(ミアキス・アソシエイツ 代表)

かさい・ひとし/ミアキス・アソシエイツ 代表、英パブリテック日本代表。10年にわたる外資系メーカーでの国内広報宣伝部門責任者を経て、1998年8月より広報コンサルタントとして独立。以来、延べ120社以上の外資系IT企業をはじめ、ITベンチャー各社の広報業務の企画実践に関するコンサルティング業務に携わる。メーカーでの広報担当時代(1989年~)から現在まで、自身で作成・校正を手がけたプレスリリースは、2400本を超えた(2023年10月31日現在: 2421本)。東京経済大学大学院コミュニケーション学研究科修士課程修了(コミュニケーション学)。日本広報学会会員。米IABC(International Association of Business Communications)会員。著書に『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』(同友館)。

河西 仁(ミアキス・アソシエイツ 代表)

かさい・ひとし/ミアキス・アソシエイツ 代表、英パブリテック日本代表。10年にわたる外資系メーカーでの国内広報宣伝部門責任者を経て、1998年8月より広報コンサルタントとして独立。以来、延べ120社以上の外資系IT企業をはじめ、ITベンチャー各社の広報業務の企画実践に関するコンサルティング業務に携わる。メーカーでの広報担当時代(1989年~)から現在まで、自身で作成・校正を手がけたプレスリリースは、2400本を超えた(2023年10月31日現在: 2421本)。東京経済大学大学院コミュニケーション学研究科修士課程修了(コミュニケーション学)。日本広報学会会員。米IABC(International Association of Business Communications)会員。著書に『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』(同友館)。

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