映画祭における、レッドカーペットが果たす役割
10月28日になると、日比谷ステップ広場には映画祭を象徴するレッドカーペットが登場しました。「カンヌ国際映画祭」とは異なって、レッドカーペットが敷かれるのは映画祭の初日のみです。そこを監督と俳優が闊歩する「レッドカーペット」とそれに続く「オープニングセレモニー」のイベントをもって、「東京国際映画祭」は華々しい開会を迎えました。
私は「レッドカーペット」の中継と「オープニングセレモニー」を取材しました。「カンヌ国際映画祭」と比べると、どうしても規模感は異なるものの、現代芸術を主題としながら、日本らしさがとても自然に表現されていたと思います。
それから1週間あまりにわたって、レッドカーペットの片付けられた日比谷ステップ広場と「まち」の映画館や会場では、映画祭の作品の上映や関連する映画イベントが連なるように開催されます。
「カンヌ国際映画祭」では、メイン会場の前に映画祭を象徴するレッドカーペットが期間中にはずっと敷かれています。一般の人々もその写真を撮るなどして、映画祭の存在を実感するかのような姿が目立っていました。また、それぞれの作品の上映の前には、監督と俳優がレッドカーペットを闊歩する名物の儀式が行われます。
この儀式が、それぞれの上映や「カンヌ国際映画祭」そのものが他の上映や映画イベントとは格式の異なるものだということを強調する役割を果たすということも考えられないでしょうか。
「まち」の性質もあって、この地区にいるのは何かの用事があってわざわざ訪れてくる人たちばかりだと思います。初日を過ぎると、「レッドカーペット」に用いた舞台などはすべて撤去されて、屋外には「東京国際映画祭」ならではのものはすべてなくなってしまいました。
唯一残されたのは、「日比谷シネマフェスティバル」のときとほぼ同じ野外上映の舞台のみです。一方で、東京ミッドタウン日比谷の屋内には「東京国際映画祭」のパネルが展示され、一部それを代替する役割を果たしていたようにも思えました。
ふだんから東京ではたくさんの上映イベントが開催されています。それゆえ、もうちょっと工夫があれば、「東京国際映画祭」ならではの体験を「まち」の中でより多くの人に体感してもらえたのではないかと思います。
つまりは、「東京国際映画祭」はそれを象徴する「もの」や「儀式」を「まち」の人々にもっと実感させることができれば、より特別感や格式を十分につくりだせると考えたのです。映画祭を通じて「まち」がメディアになる理想はそこにあるかな、とも考えます。
「カンヌ国際映画祭」では、「東京国際映画祭」と異なり、レッドカーペットのあとで、監督と俳優も報道陣たちも、作品を鑑賞するために会場の席に着きます。これが、その上映やそれにともなう映画イベントを他のものと差別化する役割を果たしていたようにも思えます。
なぜなら、一般の上映では、作り手本人が一緒になって上映を鑑賞するということはめったに起こりえないからです。逆に、監督や俳優、さらに報道陣からしても、職業の前に、また彼らも同様に映画を楽しむ鑑賞者であるということを改めて自覚できるよい機会になるはずです。ふだん日本ではそれぞれの職業で縦割りであるぶん、その枠組みを越えた出会いのきっかけを提供するということを映画祭が目指してもよい気がしますが、それはどうやら容易なことではなさそうです。