推し活はラクだ
違う世界を生きる、素性の知らない誰かを思う。メディアの彼方、ステージの上だからこそ、リアルの人間関係のような摩擦を生まない。スリリングで非日常。
ある意味推し活はラクなようにもみえる。うまく運べば、推しはまだ見ぬ未来や努力の先へと誘(いざな)ってくれるし、ファンの人生を豊かにし続けてくれる。
しかし死ぬまで推すと決めていても、いつ何があるかはわからない。
推し活は突然に表情を変える。容赦なく現実を暴き、何喰わぬ顔で推す側の無力をつきつける。そしてどれだけ熱量があっても、些細なことで終わってしまうかもしれない。そう思うと、ファン界隈でよく聞かれる『推しが尊い』という表現にも、推すことの希少性や有限性も内包されている気がしてくる。
推し活は儚い。
「推し」と「私」だけの世界
それなのになぜ人はそんな脆いものにすがってしまうのだろう。
ファンたちにはそれぞれの推しの存在意義がある。
熱愛報道で担降りしたミヨは推しを前に、母でも妻でもない、刹那の自由を獲得してきた。若い頃のときめきを何度も取り戻してきた。
幼少期から家族の介護を余儀なくされたモモコにとって、タクトは青春時代の代走者。自分が無理して夢を見なくても、タクトが代わりに頑張ってくれた。そんなタクトの存在が、今のモモコにつながっている。
Divideのステージは何度もチハルを惹きつける。そのたび「お母さん」としてのチハルが顔を出す。
いずれも「私」と「推し」だけの、一対一の特別な関係がある。どんなに推し活が儚くても、「私」と「推し」だけの物語は「私」をひたすらに惹きつける。だから界隈や運営など外野のアレコレが煩わしくなる。
そしてこの関係は「私」始点の一方通行。「私」の感じ方ひとつであっけなく危ぶまれてしまうのだ。
卒業。撤退。担降り。ペン卒。他界。上がる。
もしファンたちがそれらを迎えたとしても、少しでも救いのあるエピローグとなることを切に願っている。
▼受賞コメント
人と文章の話をするのは、チョット恥ずかしいです。そこには手の内を明かしたくない、弱点を見せたくないというズルさもあるのかもしれません。
けれどこの講座の先生方はどんな失敗も受け入れてくださるのです。それに気づいてからは惜しみなく弱さを垂れ流していきました。先生方は愛をもって導いてくださいました。ここでは失敗したモン勝ちだったのです。
それは仲間たちにおいても同様です。この講座には、互いに受け入れ、称え、高め合おうという仲間がたくさんいました。彼らには素直に弱さを見せられました。とはいえ弱さをさらけ出すのはそれなりの苦しみを伴います。学ぶことはシンドイものです。
同時に、学ぶことはラクなものです。いくらでも失敗が許されるのです。しかしここからはひとりの闘いです。今後はこの半年間の経験を携え、自立して書き続け、社会に届けていかないといけないのです。
いやあ~シンドイ。でも楽しい。
余談ですが受講中、講座開始前に応募したある文芸賞に落ちたことを知りました。でも不思議と落ち込みませんでした(全く気にしなかったワケではない)。きっとこの講座で自分が本当に書きたいものを見つけられていたから、痛くもかゆくもなかったのだと思います。負け惜しみではありません。強くなったナァ、私。
品田英雄先生、山口一臣先生、石川拓治先生をはじめとする偉大な恩師、そして支えてくださった事務局の皆様、卒業制作で取材やアンケートに協力してくれた250名以上の愛すべきオタクたち、生涯の戦友との出会いに心から感謝申し上げます。