もうひとつの郡上を「聞く」旅へ 郡上藩宝暦騒動ゆかりの地を訪ねる【岐阜】

駕籠訴により、裁判は行われたが、具体的な判決は下りなかった。宝暦8(1758)年には、最後の手段として、江戸の評定所(現在の裁判所)に設置された目安箱に訴状を投じる「箱訴」を決行。再び裁判が始まり、5年間続いた騒動はようやく終息に向かう。

長期間戦い続けた農民たちの団結を象徴する史料がある。『郡上郡村々傘連判状(からかされんぱんじょう)』だ。縦97センチ、横102・8センチとその大きさに驚く。

「歴史の授業では『リーダーが誰か分からないように放射状に名前を書いた』とよく言われますが、この連判状においてはリーダーの村を隠す、というより、村同士が同じ立場で、横のつながりで行動していたことを表している、と見ることができます。ほかにも、村の代表者の押印があることから、当時の農民が印かんを使っていた、ということも分かります。印かんは、養蚕で現金収入を得るなど経済活動の際にも使っていたようです。史料をよく見ると、当時の農民の暮らしぶりなど、さらに興味の幅が広がりますよ」

定次郎が書いたとされる『御訴訟書』も展示。当時は藩や幕府に提出する書類を事前に書き写し、控えとして残した。お手本のような文字の美しさだ。定次郎は幼少期、父・助左衛門から読み書きを習う際、居眠りをすると、手の皮をはさみで切られた、という伝承もある。時代劇のような話だが、実際、映画のワンシーンにもなった。

イメージ 映画『郡上一揆』の展示

映画『郡上一揆』の展示

宝暦騒動は、平成12(2000)年、『郡上一揆』という題名で映画化。制作費用は地元の個人・法人の出資でまかなわれ、地元住民中心のエキストラが参加するロケも行われた。展示室には映画のコーナーもあり、一部シーンのパネル展示や、ダイジェスト映像の上映もある。

「最近、映画のスチール写真が発見されました。地元の人々の思いで作った映画ですから、展示に活用できたらと思っています。ただ映画は必ずしも史実と同一ではない部分もあるので、検討が必要です」

宝暦4(1754)年、数千人の農民が、城下にある年貢管理のための御蔵会所(おくらかいしょ)に詰めかけ、検見法阻止などを訴える「強訴(ごうそ)」に及んだ。映画では、博物館の近くにある長滝白山神社の参道を利用し、このシーンを撮影。境内には「宝暦義民碑」もある。

イメージ 長滝白山神社 参道 映画『郡上一揆』の中で、強訴シーンのロケに使われた。

長滝白山神社 参道 映画『郡上一揆』の中で、強訴シーンのロケに使われた。

イメージ 宝暦義民碑(長滝白山神社内) 地域の人々が義民を称えるため、昭和30(1955)年に建立。

宝暦義民碑(長滝白山神社内) 地域の人々が義民を称えるため、昭和30(1955)年に建立。

「宝暦騒動は、時代の大きな流れの中で、起こるべくして起こったこと。農民から年貢を集める米中心の経済に限界が来ていたんです。

この騒動をきっかけに、幕府は農民だけでなく、商人からも税金を集める方向に転換していきます。農民たちが阻止しようとした検見法は、結局、新しい藩主・青山氏のもと実行されました。ただ、青山氏は農民の願いにより一時的に定免法にしたり、藩主自ら領内を回って領民との接触を図ったり、良好な関係を築こうとしたようです。

農民たちが途中で諦めて、藩の言いなりになっていたら、さらに厳しい生活を強いられていたかもしれません。権力に『屈しない』という姿勢を見せ続けたから、その後の青山氏の時代は安定した。義民が守ったこの土地に生きる人々にとって、この騒動と義民への思いは、映画があってもなくても、変わらないでしょうね」

騒動終結から266年、映画公開から24年。「小学生でも分かりやすい展示」の裏側には、時の流れに「屈することなく」、子どもたちに伝え続ける地元の人々の思いがあった。

イメージ 道の駅 白山文化の里長滝 博物館の目の前。長良川を眺めながら休憩ができる。「テイクアウト華虎」の鮎のモナカが付いた「ひるがの牛乳ソフト」が人気。

道の駅 白山文化の里長滝 博物館の目の前。長良川を眺めながら休憩ができる。「テイクアウト華虎」の鮎のモナカが付いた「ひるがの牛乳ソフト」が人気。

イメージ 料理旅館 浅野屋 獲れたての鮎や朴葉味噌焼きなど、郡上の味覚が楽しめる。

料理旅館 浅野屋 獲れたての鮎や朴葉味噌焼きなど、郡上の味覚が楽しめる。

次ページ「郡上の米で造る『もう一杯』」に続く

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