令和も続く「新しい藩主」の思い
郡上八幡城
大和町からさらに長良川を下ると、郡上市八幡町(はちまんちょう)に着く。日本三大盆踊りの一つ「郡上おどり」や、「郡上八幡城」が有名な町だが、宝暦騒動を知り、城や城下を訪ねると、また違う景色が見える。
郡上八幡城の大手門跡から、天守のある八幡山山頂を目指し登り始めて数分で「御蔵会所跡」の案内看板に出会う。検見法阻止を藩に訴えようと、数千人の農民が詰めかけた「強訴」の舞台だ。大勢の農民の姿を想像しながら、さらに歩みを進める。
御蔵会所跡 案内
「郡上藩に入部する際、かなり気を遣っていたと聞きます。あの宝暦騒動のあとですからね」
まるで当時の藩主から聞いたように語るのは、郡上八幡産業振興公社で、郡上八幡城の案内や管理を担当する青山幸紀さん(34)。なんと最後の郡上藩主、青山幸宜(あおやまゆきよし)のひ孫にあたる。なお、現在の青山家当主は兄の幸喜さん。
郡上八幡産業振興公社 青山幸紀さん
郡上おどりに「三百」という演目がある。宝暦9(1759)年6月に京都・丹後の宮津藩から郡上藩に入った青山幸道(あおやまよしみち)が、藩内の出迎えの者に感謝の気持ちとして三百文(当時はそばが1杯16文程度)ずつ与えたところ、それに感激した人々が、当時踊られていた地踊りを披露。その踊りがのちに「三百」と呼ばれるようになったと伝わる。
宝暦騒動後から明治維新までの110年間、郡上藩を治めた青山家はその後、東京に移る。青山さんも東京で生まれ育ったが、縁のある郡上で働きたい、青山家や郡上のことを語り継いでいきたい、と思い11年前、就職を機に郡上に移った。
「郡上には幼いころから親に連れられて、何度も来ていました。おそらく生まれて初めて見たお城が郡上八幡城。再建の天守なので、実際に曽祖父がいたわけではありませんが『ここで郡上を治めていたんだ』と思いましたね」
現在建っているのは昭和8(1933)年に築造された日本最古の木造模擬天守。昨年、築造から90年を迎えた。
1階と3階は、城や歴代藩主に関する展示室で、宝暦騒動の説明パネルや、箱訴をした一人、剣村(つるぎむら)(大和町)藤次郎(とうじろう)が、江戸から郡上までの道筋で携帯したとされる脇差もある。2階と4階は展望室。長良川最大の支流・吉田川と、城から遠く離れた山中の村々へと続く道が見える。
宝暦騒動の説明パネル 中央には農民の寄合の様子を再現したジオラマがある。
箱訴人藤次郎の脇差 豪胆な人物というエピソードが複数残る剣村藤次郎の脇差。判決では死罪となった。
郡上八幡城天守からの景色 中央には吉田川が流れている。この奥にある寒水村(かのみずむら)や市島村(いちしまむら)の農民も獄門や死罪となった。
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