青山家は、領民に寄り添った年貢の徴収や、藩主自らの領内巡回のほか、騒動で混乱した領内の融和のために踊りを奨励したともいわれている。
青山家に代々伝わる教えのようなものは無いのか。
「『でっぱらず、ひっこまず』ですね。俺が俺が!と前に出ず、でも卑屈になることもなく、ほどよい加減でいけよ、と。大変な騒動のあった藩を任されたのは、青山なら領民とうまくやるだろうという、幕府からの信頼の証だったのかな、と思います」
司馬遼太郎が『街道をゆく』の中で、雪化粧の郡上八幡城を「悲しくなるほどに美しかった」と記す。その景色に辿り着くまでの道の雪掻きも、青山さんの仕事だ。
「最初に来た年に30センチくらい、積もりました。雪掻きが終わったと思って振り返ったら、もうはや後ろに積もっとって(笑)。どんなに雪が降っても来場者がゼロ、という日は無いので、雪掻きをしないわけにはいきません。スコップと長靴は常備していますね。夏には高さ5メートルの石垣の除草作業もします」
展示品の中には最後の藩主・幸宜が神社に奉納した甲冑もある。装備は変わっても、城を守る気持ちは今も変わらない。淀みのない郡上弁も備え、いずれは郡上市長だろうか。
「いやいや、井伊さん(旧彦根藩主井伊家の第16代当主直愛のこと。昭和28(1953)年から36年間、彦根市長を務めた)じゃないんだから!」
市長よりも、近年、郡上で発見された青山家の史料の調査結果が気になるようだ。
「宝暦騒動後の郡上のことが、もっと分かるかもしれません。その資料が公開できれば、より深くお城や郡上の歴史を知ってもらえますね」
「でっぱらず、ひっこまず」、令和の青山家も郡上と共に歩んでいる。
郡上義民顕彰碑 郡上八幡城のふもとの「ホテル積翠園」の敷地にある。天守の帰り道なので見つけやすい。昭和41(1966)年建立。
宮ヶ瀬橋 「城下の橋梁工事の給金を貰っていない」の城下の橋。吉田川に架かる。現在の橋は昭和12(1937)年3月竣工。
庄村米穀店 城下にあり、国産の「白干しひえ」などの雑穀が購入できる。当時の農民はひえと米を混ぜて食べていた。
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