宝暦騒動最後の場所へ
穀見野(こくみの)刑場跡 一番右の石碑には「宝暦義民殉難者供養碑」と刻まれている。
穀見野(こくみの)刑場跡 案内
城下からさらに南へ。吉田川と合流した長良川沿いをしばらく歩くと、国道の脇にひっそりと並ぶ石碑が見えてくる。獄門となった三人の首は、ここ「穀見野(こくみの)刑場」に運ばれ、宝暦9(1759)年1月18日から3日間、さらされた。
老中や藩主の処分により、「農民が勝利した一揆」とも呼ばれる郡上藩宝暦騒動。しかし、念願だった検見法阻止は叶わず、多くの農民が処刑され、判決までに牢死した者も少なくなかった。また、青山家の領民に寄り添った政治の一方で、金森家の浪人は義民を恨み、その墓を壊すこともあった。
白山文化博物館の鈴木さんはこんな話もしていた。
「判決が出て終わり、ではない。農民も、幕府関係者も、金森氏も、彼に仕えた武士も、みんなに生活があったんです」
『まいまいつぶろ』では騒動の後、「御定法もあり、願いが叶うかどうかは、それとは別。上様は百姓たちの、言葉の通じぬ苦を取り除いておやりになりました」と、忠光が家重に声をかける。
その「言葉」が届くまで屈しなかった郡上の農民たち。発し続けた言葉は、今、郡上に生きる人々にも響き、新たな「言葉」となってこの地を支えている。
穀見野刑場跡から北に見る長良川
▼受賞コメント
卒業制作のテーマのきっかけは、インタビューの練習。インタビュイーとして、子どもの頃の話をしました。「夏休みの自由研究で、地元の百姓一揆を調べるような子どもでしたね」
私の父は、地元の博物館で働いていました。はっきりとは覚えていませんが、学校で習ってきた一揆の話で盛り上がり、自由研究の題材にしたのでしょう。父の仕事が休みの日に、史跡に連れて行ってもらいました。神社、城郭、石碑や墓、刑場跡…数回に分けて35の史跡を回り、自分で写真を撮るように勧め、郷土史家の方に話を聞かせてもらえるよう頼んでくれました。今思えば、この経験が「自分で見たことを誰かに伝える」原点だったと思います。
ウン十年経ち、改めて一揆について調べ、書いてみたい、そして読んだ人に「現地に行ってみたい」と思ってほしいと、「郡上藩宝暦騒動」を卒業制作のテーマに選びました。
実は、言葉に携わる仕事がしたいと、あてもなく会社を辞めてこの講座を受講しました。ただ、「読んだ人に行動してもらうように書くこと」が大切だと、講座だけでなく、前職での接客や営業企画の経験からも理解していたため、それらを活かしたことがよかったのかな、と感じています。何より、騒動の義民たちと、今、郡上市を盛り上げる方々の思いと行動が、この記事を最優秀賞に導いてくれたのだと思います。
「社会科の自由研究のコンクールがないのが、本当に残念です」理科はあるのに、と、小学生の頃の自由研究に対し、担任の先生がくれた言葉を、最優秀賞として名前を呼ばれた際に思い出しました。
こうしてアドタイに掲載されることで、一人でも多くの方に郡上市と宝暦騒動のことを知っていただけたら幸いです。
講師・事務局・受講生のみなさま、そして取材にご協力いただいたのみなさまのおかげで、ここまで来られました。「読む人に行動してもらうには」を忘れず、次は広告代理店で挑戦を続けていきます。ありがとうございました。