ポリオを患ったルーズベルト、どのように大統領になったのか?
ルイス・マクヘンリー・ハウ(Louis McHenry Howe)は、フランクリン・D・ルーズベルト大統領の初期の政治顧問を務めたことで知られています。
ニューヨーク・ヘラルド紙で記者として働き始め、1906年にニューヨーク州議会担当記者となったころから、政治家との付き合いが始まりました。
1911年、民主党の新進気鋭の政治家フランクリン・D・ルーズベルト(以下FDR)がニューヨーク州上院議員に当選した際に知り合ったハウは、それ以降、FDRの政治キャリアを支える重要な参謀となりました。
1921年、FDRがポリオを患って政治生命が危ぶまれた際、彼を励まし続け、政界復帰を支援しました。1928年には、FDRのニューヨーク州知事選を成功に導き、1932年の大統領選挙でも戦略的な役割を果たし、FDRが1933年に大統領に就任した後、大統領顧問として彼の広報活動に深く関わりました。しかし、ハウはその後健康を害し、1936年に亡くなりました。
ハウは、FDRの政治家活動を支えた「影の軍師」とも言われ、彼がいなければFDRの大統領当選は難しかったとも考えられています。ハウの広報戦略とメディア活用術は、現代の選挙戦にも通じるものがあり、その代表的な取り組みをいくつかご紹介します。
下半身不随を隠すために写真の写り方、ポーズなども指示
FDRは1921年に難病ポリオを発症し、下半身不随となりました。これにより、多くの政治家やメディア関係者は「彼の政治生命は終わった」と考えました。これに対して、ハウはFDRの障害を公に見せないように、情報を徹底的に管理しました。
たとえば、メディアに対してはFDRの車椅子姿や、介助が必要な場面の撮影を避けるよう要請しました。また、写真撮影の際は、彼が執務室で座っているところや、立っているように見えるポーズを取らせるなどの工夫を実施しました。
さらにハウは、ルーズベルトの体調が改善しているというメッセージをメディアに伝え続け、支持者や国民に安心感を与えようと試みました。
1920年代以降のアメリカでは、新聞・雑誌に加えてラジオが普及し、マスメディアの世論に対する影響力が高まりました。マスメディアは、今まで以上に政治家のイメージを大きく左右する力を持ち始めたことを、ジャーナリスト出身のハウは理解しており、メディアの重要性に注目していました。
彼は好意的な報道を促すために、ホワイトハウスの記者たちと個人的な関係を築き、彼らにFDRの前向きな側面を伝え続けました。特に、新聞社にはFDRの「人間味」や「リーダーシップ」を強調する記事を書くよう働きかけました。
1929年から始まった世界恐慌は、アメリカに大きな影響をもたらし、多くの国民が政府に対して不信感を抱いていました。1932年の大統領選挙では、ハウはFDRのブランドイメージ確立に尽力しました。
当時、アメリカは深刻な不況にあり、大統領を務めていたハーバート・フーバーへの国民の不満が高まっていました。そのためハウは、FDR陣営の政治顧問として、「希望と変革」を前面に出した選挙スローガンを作り、「ニューディール(New Deal)」のビジョンを強調し、国民に「新たな時代が来る」という希望を伝え続けたのです。
スピーチライターとして「国民に寄り添う大統領」演出
大統領に当選後、ハウはラジオ放送「炉辺談話(Fireside Chats)」の放送をFDRに提案しました。これは、大統領が初めて、ラジオを通じて自ら国民に直接語りかける番組でした。
「親しみやすく、わかりやすい言葉」で政策を説明し、国民の安心感を高める放送により、FDRは「国民に寄り添う大統領」としてのイメージを確立できたのです。ハウはFDRのスピーチライターとしてその内容を事前に確認し、「難解な専門用語を排除し、シンプルで感情に訴える表現にする」ことを徹底しました。
当時の政治家は堅苦しいイメージがあり、国民との距離がありました。ハウは、FDRの大統領像をより親しみやすいものにするため、さまざまな手法を展開しました。
たとえばFDRの家族との写真をメディアに提供し、「親しみやすい人物」として印象付けようとしました。また、公共の場でのFDRのスピーチでは、国民と積極的に握手し、会話する様子をメディアに撮らせました。ハウは、FDRに「ユーモアのあるスピーチ」を助言し、国民に親しみやすい印象づくりに尽力しました。
ハウのメディア戦略は、単なる「イメージ操作」ではなく、FDRを「国民と直接つながるリーダー」として位置づけることに成功した点が特筆されます。ハウの戦略は、現在の政治キャンペーンやメディア戦略の基礎にもなっており、「メディアを活用した政治の成功例」として今も語り継がれています。
