「ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える。」
道具を手にした人間はそれを万能の解決策と信じ、必要以上に使う誘惑に駆られる。
「道具の法則」とも呼ばれるこのフレーズは、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが著書で指摘した認知バイアスとして知られている。「欲求五段階説」で有名な、あのマズローである。
マーケティングの世界には、新しい「道具」が次々と登場する。
「DX(デジタル・トランスフォーメーション)ツール」もその一つだ。
広告業界は、DXという「黒船」への開国を余儀なくされ、クリック率やCVRといった測定可能な指標を手に入れたことで市場拡大を果たした。
一方「広報村」にその外圧は届かず、長らく「鎖国」状態にある。
効果測定は広告費換算に頼り、人脈や経験に依存したアナログな手法が主流。広報担当者はルーティン業務に追われ、本来の「経営機能」としての広報に十分向き合えない。
本書の著者・渡辺幸光氏はそんな現状を憂うだけでなく、手ずからメスを入れる。
広報SaaSの開発会社を自ら立ち上げ、広報DXの推進により測定の「見える化」と業務の省力化を実現しようとする。
著者が提唱する「広報欲求の五段階説」は、奇しくも前述したマズローの「欲求五段階説」にヒントを得たものだ。
人間と同様、企業の広報欲求も単なる「露出獲得(生存欲求)」を超え、最終的には「経営と社会貢献(自己実現)」の段階に達する。
そしてそのステージに応じ、評価軸も短絡的な「量」の測定を脱し、経営目標というゴールから逆算した成果(アウトカム)や施策(アウトプット)をKPIとすべきだと主張する。
著者の指摘するように、広告のDXは確かに市場拡大をもたらした。しかし「広告村」の片隅でクリエイティブに汗する私の目には、測定可能な指標を偏重することで短期の成果主義に陥り、足元の土壌は痩せ細り続けているようにも見える。
プラットフォームは「品」も「質」も欠くバナークリエイティブに溢れ、モラルハザードも進行した。マズローの顰みに倣えば「物差しを持つと、なんでも測りたがる。測れないものには、見向きもしない」といったところか。
ここで渡辺氏が導入するのが「広報資産」という概念だ。これが示唆に富んで興味深い。
見せかけの露出量に惑わされず、企業が本来築くべき“生活者の信頼”や“文化資本”、“社会との良好な関係”といった無形の「資産」を正しくアセスメントし、粘り強く積み立てていく視点。
この喩えからは、いまある価値基準を絶対不変と捉えず、広報資産を多様なアセットクラスに分散し、ポートフォリオとしてリスク管理する⋯そんなイメージも湧いてくる。
氏が思い描く広報DXは、「マズローのハンマー」では断じてない。経営課題と結びついた「資産形成」なのだという、秘めた情熱をひしひしと感じる一節だ。
折しも企業価値の評価基準は、大きく揺らぎはじめている。
サステナビリティやDE&Iへの資本投入は米国を皮切りにすでに後退しつつある。
次なる「黒船来航」は「デジマ」だけの話ではないのだ。
そのとき広報も広告もなく、私たちはどう対処すべきなのか?
何を変え、何を変えてはいけないのか?
本書は読者にとって、この先も第5の欲求―「経営と社会貢献(自己実現)」というゴール を見失わないでいるための、貴重な羅針盤になるはずだ。
『なぜ御社の広報活動は成果が見えないのか? 可視化・数値化・省力化を加速するDXの進め方』
(渡辺幸光 著)
いまだアナログ作業が多い広報の仕事や部門の在り方に変革を促し、広報担当者に向けてAIの活用などこれからの仕事の進め方について提言。広報活動の課題解決の糸口となる「見える化・数値化・省力化」の考え方と具体的な施策について紐解く。広報担当者必携の1冊。
