アカデミー賞に見る「クリエイティブ・エシックス」の標準装備化
『クリエイティブ・エシックスの時代』では、DEI(Diversity, Equity, Inclusion)をはじめとする「世界を今よりいい場所にできるか」という倫理観を「クリエイティブ・エシックス」と定義する。その倫理観が有効に機能する世界の潮流について、著者の橋口幸生氏の属する広告業界の視点から、具体的事例を元に論じた書籍だ。アメリカン・エクスプレスやDoveなどの世界的企業の事例からツバル政府の取り組みまで、「クリエイティブ・エシックス」を軸に幅広く丁寧に現代社会を分解している。
『クリエイティブ・エシックスの時代 世界の一流ブランドは倫理で成長している』橋口幸生著/2025年2月26日発売
本書で印象的なのは、広告のみならず、『パッドマン』や『ダークナイト』の例など、氏が愛好する映画についても倫理観が重視される様が度々論じられている点だ。本書の書評を依頼された私は映画解説者であるため、その領域に限って多少の専門性がある。よって本書における映画領域の論考を補完する形で、いかに真っ当な倫理観が重要視される社会へと変化しているのかを論じ、本書が提唱する「クリエイティブ・エシックス」の影響は、広告のみならず現在の映画界の在り方にも深く及んでいることを示したい。
アメリカ映画界最大の祭典であるアカデミー賞が結果的にDEIを宣言した年は、2014年。この年、スティーブ・マックイーン監督の『それでも夜は明ける』が、最高賞である作品賞を受賞した。本作は、1800年代半ばに誘拐され12年間も奴隷にされた自由黒人の困難と苦闘を描いた物語である。
本作受賞における歴史的価値は、それまでの90年近くにわたるアカデミー賞の歴史において、黒人の物語が初めて作品賞を受賞したことだ。それが逆説的に意味するのは、アメリカ映画界への功労者で構成され、各賞のノミネートや受賞を決める投票権を持ったアカデミー会員たちが、属性的に多様性を持たず、極めて保守的であったことを意味する。
『それでも夜は明ける』の作品賞受賞を皮切りに、アメリカ映画人たちのDEIに対する意識はより顕著に変化することになるが、もうひとつ、この変化に大きなインパクトを与えた事件があった。それが翌2015年に登場した#OscarsSoWhite(白すぎるオスカー)のムーブメントである。これは、2015年のアカデミー賞の俳優部門の全ノミネート20人が白人であり、翌年も俳優部門のノミネートは全て白人となったことに端を発している。
それもそのはずで、2012年時点のアカデミー会員の94%が白人、77%が男性、平均年齢は62歳だった。#OscarsSoWhiteによる強烈な批判がDEIの適正化を加速させた結果、アカデミー賞を運営する映画芸術科学アカデミーは、女性、非白人などのマイノリティ属性を持つ会員を大幅に増加させた。現在では、約35%が女性、約20%が非白人という会員構成へと多様化が進んだ。
こうしたDEIの動きは、その後のアカデミー賞作品賞の受賞結果にもハッキリと現れている。とりわけ2017年以降に受賞した『ムーンライト』『シェイプ・オブ・ウォーター』『グリーンブック』『パラサイト 半地下の家族』『コーダ あいのうた』『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』『ANORA アノーラ』は、DEIが作品の中核を占める要素として組み込まれている。
つまり、アカデミー賞における作品の評価基準として、演技や脚本、撮影、演出などと同じ位置付けで、DEIという新しい軸が組み込まれ既に定着した、といえる。現在では、アカデミー賞作品賞のノミネーション段階で、スタッフやキャストに一定数以上のマイノリティ起用を条件に組み込んでいる点でも、その意図は明らかである。要するに、映画界も本書が指摘する「クリエイティブ・エシックス」が標準装備となった。
反DEI「バックラッシュ」の行方をどう見るか
しかし、アイデンティティ・ポリティクスの急拡大などに象徴される急激な変化を危惧し、批判的な文脈で「WOKE」(社会問題に気づき、正義に目覚めた)と冷笑、批判する動きが、映画界の内外に生まれている。法律に加えて倫理面での問題を指摘された人々も除外するキャンセルカルチャーは、#MeToo運動が隆盛した2017年ごろからより大きな影響を持ち始めたが、その鋭敏なキャンセルカルチャーに対する反発も高まってきた。本書でも第8章で「バックラッシュ」に言及しているが、とりわけトランプ大統領の再任以降、反DEIの社会的な動きは急激に勢いを増し、これまでDEIを推進してきた企業への圧力が強まっている。映画会社も芸術領域を含みつつも巨大な産業を営む民間企業であるため、難しいハンドリングを迫られる可能性があり、雲行きは怪しい。
今後の映画界で予想されるのは、大局としてはこれからも「クリエイティブ・エシックス」が重要な核として存在し続けるだろう。これは不可逆だ。ただ、カウンター表現も生まれてくるのではないか。おそらく、明示的にDEIを否定する形ではなく、DEIを大きく扱わない、表面的には関与しない作品が、アカデミー賞などの賞レースは難しくとも、興行面で台頭する可能性を感じ取っている。
トランプの再登場は、原因ではなく結果だ。その背景のひとつには、歴史の大きな揺り戻しとして急速に推進されたDEIの名の下に「軽んじられた、見捨てられた」と感じている、新たな苦しみを抱えた人々の存在がある。確かに、本書「クリエイティブ・エシックスの時代」で論じられている、社会を正しい方向へと導く倫理観の必要性は、我が意を得たりだ。本書の存在は、アメコミ好きの橋口氏の末文に重ねて言うならば、悪意で冷笑を重ねて現実社会を後退させるジョーカーに、適切な倫理観で対抗するヒーローを登場させる一助となるだろう。しかし同時に、社会的な正しさの狭間で苦しむ人々にも手を差し伸べる倫理観、さらにアップデートされた「クリエイティブ・エシックス」の誕生も待たれるのだ。

橋口幸生著/
定価2,200円+税
『クリエイティブ・エシックスの時代
世界の一流ブランドは倫理で成長している』
現代のビジネスパーソンがいま知っておくべき、倫理(エシックス)とその事例を解説。「炎上するのが嫌だから守る倫理(コンプライアンス)」ではない、「ブランドをより魅力的に成長させるための倫理」を紐解く、はじめての書籍です。人権、ジェンダー、多様性、セクシュアリティ、気候変動などのテーマ別に、時代による変遷や、さまざまな具体事例もあわせて紹介。この一冊で、押さえておくべき必須教養が身につきます。