職人のこころは、国を越えて伝わる

フランス人も驚く日本の職人の技術

MIWA施工中の月曜日、ヴェルサイユ宮殿にいった。ヴェルサイユは月曜日が定休日なのだが、この日はMIWAの裏に住んでいるマイケルさん(仮名)と一緒に行く。マイケルさんはどうしても、数寄屋大工の相良さんをヴェルサイユの職人に会わせたかったのだ。

マイケルさんはアメリカ人。もう90歳近いのだが、フランスの文化が好きで数十年前にパリに移住してきた。60年代には日本に暮らした経験もあるため、日本の文化にもくわしい。マイケルさんは70年代にヴェルサイユ宮殿友の会に尽力した1人らしく、その功績のためか休日でもフリーアクセスでヴェルサイユに入れる。大きな鍵束をもったマイケルさんは次々と秘密の扉をあけていく。いままでの表のヴェルサイユとは全くちがった見方をマイケルさんが説明してくれる。

ヴェルサイユには、トイレは無いと言われているが、実は裏にはとても豪華なトイレが存在していること(あまりに小さい部屋なので観光客には見せることができない)。ヴェルサイユは偶然に拡張していった建物。その時代ごとに改築されたため、今は昔の図面を元に多くの場所が復元されていること。たとえば、玄関の部分は子供が増えるとともに部屋が足りなくなったため、階段や大きな吹き抜けを潰して部屋をつくっていたが、いまは階段を復元させていること。これらの改修や維持にはロックフェラー財団が莫大な寄付をしているらしく、アメリカ人のマイケルさんは誇らしげに語った。

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フランスは職人文化が盛んだと思われがちだが、技術の伝承がとても難しくなってきている。MIWAを作るときに桧を運びフランスの大工につくってもらうことも考えていたが、リサーチしたところ、数寄屋大工のような洗練した技術はすでになく無理だといわれた。パリの街並をつくった職人の技術はすでに過去のものになりつつある。MIWAは結局、解体、電気、水道工事以外は、すべて日本からきた数寄屋大工の相良さんの手によるものだ。MIWAにきた人たちは、相良さんの緻密な手仕事に驚きをかくせない。すべて手でかんながけされたヒノキの美しさは、国境を越えて伝わっている。マイケルさんは完成するまで毎日MIWAにビールをもってきて、相良さんをねぎらっていた。マイケルさんは職人が大好きなのだ。

相良さんや僕は、いつもフランスの施工会社の仕事の荒さに文句をいっていた。無垢のヒノキに土足で上ったり、道具をぶつけたりは茶飯事だった。どれだけ相良さんが苦労をしてかんなで仕上げたかを彼らは理解しようとはしていなかった。そんなフランスの大工の荒さに絶望していた僕たちに、マイケルさんはすごい職人もいるんだよ、と会わせたかったのではないだろうか。

言葉では伝えきれない体験

MIWA_craft

マイケルさんに連れていかれたのは、ヴェルサイユの家具の修復工房。何代にもわたって親から子、子から孫へと技術の伝承がされている。マイケルさんいわく、多くの職員や職人が宮殿の中で暮らしているらしい。彼らはきっと愛着をもってヴェルサイユと彼らの仕事に接しているにちがいない。そして、家具修復職人の思いを支えるのは、日本ののこぎり、ノミ、鋏などの日本の道具だった。職人たちは日本の道具が一番と言い、これらがないと今では修復ができないと言った。フランスの職人の繊細な仕事を、日本の職人による道具がささえている。それを見た相良さんは、全く言葉が通じないのに、なにか解り合っているようにうなずいていた。

フランスの中でもヴェルサイユの工房はとても恵まれている。ひのきをMIWAに運び込む前に作業が必要になったので、道具が揃っている工房を探した。そのとき見つけたのが古い家具の工房。この工房ではオーダーメイドの家具を作っていたのだが、いまでは需要がなくなってしまって、大手のキッチンメーカーなどの下請けの仕事をしていた。パリではほとんどの工房はこのような厳しい状況にある。その工房で相良さんがヒノキの鉋掛けをしているところを、フランスの職人は興味深く見ていた。とても薄く曳かれたヒノキの鉋屑をに驚き、工房全体に広がるその香りに感動していた。最後にこの工房の社長が相良さんに古くから伝わるフランスの家具の制作マニュアルをプレゼントしていた。職人と職人の言葉を介さないコミュニケーション。国は違えど、彼らは相良さんに職人の未来を託したように見えた。

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世界で伝統工芸がどんどん失われているといわれているが、日本はまだまだ捨てたもんじゃない。法隆寺が世界最古の木造建築として世界遺産に登録されるとき、元々使われている木材は20%しかないことが問題になったらしい。このときユネスコの会議で話し合われたのは、モノだけではなく、技術の伝承も含めて世界遺産なのではないかということだったようだ。1300年もの間、オリジナルに限り無く忠実に残す技術の伝承が日本にはある。伊勢の神宮の式年遷宮も20年に一回立て替えることで技術が継承されてきている。日本にはモノとして残すだけではなく、それを支える美意識や技術を伝承していく仕組みがある。

手仕事のすばらしさは、日本人だけではなく、言葉を介さず世界の人に伝わる。MIWAをやっていて思うのは、この感動、千数百年の歴史の上にある今を、深く感じてもらうことこそ日本の美を伝えるもっとも重要なことなのではないかということ。言葉では伝えきれない共体験を、多くの人に伝えていきたい。


【佐藤武司「パリ発 世界に通じる日本ブランドのつくり方」バックナンバー】

佐藤 武司(Rightning Paris SAS PDG/MIWAブランドディレクター)
佐藤 武司(Rightning Paris SAS PDG/MIWAブランドディレクター)

1973年、愛知県名古屋市生まれ。三重県桑名市育ち。慶応義塾大学大学院・文学研究科・美学美術史学専攻アート・マネジメント分野修士課程修了。
ビクターエンタテインメント株式会社にてビジュアルプロデュースを経験後、デザイン、映像制作会社として株式会社ライトニングを設立。株式会社ライトパブリシテイと資本提携し、CM等の広告制作を開始。iF design award、reddot design award、New York ADC賞GOLD、GOOD DESIGN賞を受賞。その後、業務を商品企画、CSRにも拡大し、世界初木製ケータイ「TOUCH WOOD SH-08C」を企画する。311を経験後、2011年10月Rightning Parisを設立。経済効率優先の物質文明の先にある生き方、社会のあり方を、美学的アプローチから提案するコンサルティング、プロデュースを行う。
2012年4月よりパリに移住し、700年の伝統のある「折形」を用いたブランド「MIWA」 Pavillon de la cérémonie du cadeau(贈物の儀式を行う特別の場所)を立ち上げる。歴史を紐解き、いままでとは違った視点からコンテクスト化することによって、新たな価値を生み出して行くプロデューサー。

佐藤 武司(Rightning Paris SAS PDG/MIWAブランドディレクター)

1973年、愛知県名古屋市生まれ。三重県桑名市育ち。慶応義塾大学大学院・文学研究科・美学美術史学専攻アート・マネジメント分野修士課程修了。
ビクターエンタテインメント株式会社にてビジュアルプロデュースを経験後、デザイン、映像制作会社として株式会社ライトニングを設立。株式会社ライトパブリシテイと資本提携し、CM等の広告制作を開始。iF design award、reddot design award、New York ADC賞GOLD、GOOD DESIGN賞を受賞。その後、業務を商品企画、CSRにも拡大し、世界初木製ケータイ「TOUCH WOOD SH-08C」を企画する。311を経験後、2011年10月Rightning Parisを設立。経済効率優先の物質文明の先にある生き方、社会のあり方を、美学的アプローチから提案するコンサルティング、プロデュースを行う。
2012年4月よりパリに移住し、700年の伝統のある「折形」を用いたブランド「MIWA」 Pavillon de la cérémonie du cadeau(贈物の儀式を行う特別の場所)を立ち上げる。歴史を紐解き、いままでとは違った視点からコンテクスト化することによって、新たな価値を生み出して行くプロデューサー。

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